ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
63ページ/184ページ


3.5.22


なによりも、“叫び声”の怪異をそれほど恐れず、かえって面白がっている村童たちと、
これを心底から恐怖をもって受け止めている「三郎」とのあざやかな対照が、そのように思わせるのです◆

◆(注) この対照に基く・もうひとつ別の解釈もありうると思います。村童らが馴れ親しんでいる・この土地の怪異も、外部から来た「三郎」には、そら恐ろしいものに思われる、という理解です。この理解では、“「三郎」は風の又三郎だ”という村童たちの疑いは、事実ではないことになります。「三郎」にとっては、すべてが村童らの“迷信のせい”にすぎないのですが、しかし、その“迷信”が現実化した場面に遭遇してしまったことが、「三郎」に対して、底知れない恐怖を惹き起こすのです。

さて、次に、1923-24年頃書かれた最初の形──童話『さいかち淵』を見ておきたいと思います:『さいかち淵』

「しゅっこは、今日は、毒もみの丹礬(たんぱん)をもって来た。〔…〕

 〔…〕今日なら、もうほんとうに立派な雲の峰が、東でむくむく盛りあがり、みみずくの頭の形をした鳥ヶ森も、ぎらぎら青く光って見えた。〔…〕みんな急いで着物をぬいで、淵の岸に立つと、〔…〕

 しゅっこが、大威張で、あの青いたんぱんを、淵の中に投げ込んだ。それから、みんなしぃんとして、水をみつめて立っていた。ぼくは、からだが上流(かみ)の方へ動いているような気持ちになるのがいやなので、水を見ないで、向うの雲の峰の上を通る黒い鳥を見ていた。〔…〕

 ところが、そのときはもう、そらがいっぱいの黒い雲で、楊も変に白っぽくなり、蝉ががあがあ鳴いていて、そこらは何とも云われない、恐しい景色にかわっていた。

 そのうちに、いきなり林の上のあたりで、雷が鳴り出した。と思うと、まるで山つなみのような音がして、一ぺんに夕立がやってきた。風までひゅうひゅう吹きだした。〔…〕河原にあがった子どもらは、着物をかかえて、みんなねむの木の下へ遁げこんだ。ぼくも木からおりて、しゅっこといっしょに、向うの河原へ泳ぎだした。そのとき、あのねむの木の方かどこか、烈しい雨のなかから、

『雨はざあざあ、ざっこざっこ、
 風はしゅうしゅう、しゅっこしゅっこ。』

というように叫んだものがあった。
しゅっこは、泳ぎながら、まるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして遁げた。ぼくもじっさいこわかった。ようやく、みんなのいるねむのはやしについたとき、しゅっこはがたがたふるえながら、

『いま叫んだのはおまえらだか。』ときいた。

『そでない、そでない。』みんなは一しょに叫んだ。ぺ吉がまた一人出て来て、『そでない。』と云った。しゅっこは、気味悪そうに川のほうを見た。けれどもぼくは、みんなが叫んだのだとおもう。」





改作後の『風の又三郎』と比べると、誰か判らない“叫び声”の怪異性は少なく、しかも、最後の「けれどもぼくは、みんなが叫んだのだとおもう。」という説明によって、怪異性が否定されてしまっています。

しかし、突然の驟雨の激しさ・恐ろしさと、その伏線としての「黒い鳥」は、すでにこの初期段階のテキストから現れています。

「黒い鳥」に関して言えば、

川の流れを見つめていると、「からだが上流の方へ動いているような気持ちになるのがいやなので、」と、「黒い鳥」を見ていた理由が書いてあります。

「黒い鳥」の像とともに、「からだが上流の方へ動いているような」眩暈の感覚が表現されていて、
『風の又三郎』以上に、“雨のオブセッション”──怪異の近づいている前兆──としての意味がはっきり示されていると思います。

また、『さいかち淵』では、“毒もみ”の材料も、山椒の粉のような毒性の少ないものではなく、「丹礬」(硫酸銅)であり、

鉱毒を川に流す「しゅっこ」の行為に対して、自然界が怒って怪異現象を現したともとれる筋です。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ