ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.5.9


. 春と修羅・初版本

42あのときはきらきらする雪の移動のなかを
43ひとはあぶなつかしいセレナーデを口笛に吹き
44往つたりきたりなんべんしたかわからない
45  (四列の茶いろな落葉松(らくやうしやう))
46けれどもあの調子はづれのセレナーデが
47風やときどきぱつとたつ雪と
48どんなによくつりあつてゐたことか

↑《初版本》に収録された形で読むと、まるで吹雪の中を楽しく行き来していたかのように思ってしましますが、
これは数ヵ月後の回想であるだけでなく、その回想を、また、何度も推敲した後の形だからなのです。

いま、【下書稿】を見てみますと:

↑43行目の「あぶなつかしいセレナーデ」は、【下書稿】では:

「おぼつかない/セレナアデ」

46行目の「あの調子はづれのセレナーデ」は:

「あの変てこなセレナアデ」

でした。

作者は、決して地吹雪をものともせずに颯爽と往復していたわけではなく、
「屈折率」にも描かれたような「おぼつかない」足どりで、道に迷ったようにさまよっていたのだと思います。

46けれどもあの調子はづれのセレナーデが
47風やときどきぱつとたつ雪と
48どんなによくつりあつてゐたことか
49それは雪の日のアイスクリームとおなし
50(もつともそれなら暖炉もまつ赤だらうし
51 muscobite も少しそつぽに灼けるだらうし
52 おれたちには見られないぜい澤だ)

49行目以下の部分は、よくよく考えてみると、難しい点があります。

そこで、この部分を、まず【下書稿】☆から引用しましょう:

「けれどもあの変てこなセレナイデが
 吹雪とよく調和してゐた。
 一体さうだ。夏の日にあの白秋が
 雪の日のアイスクリームをほめるのも同じだ。
 もっともあれはぜいたくだが。」

☆(注) ここでは、手入れ前の【下書稿】の最初の形を復元しました。

ここには北原白秋が名指しで登場しているのです。

白秋は、当時から非常に有名だった詩人・作詞家で、白秋の詞に山田耕筰が作曲した「ペチカ」が発表されたのは1924年の『満州唱歌集』においてでした(日本内地での発表は1925年)。また、東京で賢治が通った浅草オペラでも、白秋の作詞した歌が、ふんだんに使われていました。第1章の作品「習作」の「とらよとすれば、その手から…」は、白秋作詞になる浅草オペラ「カルメン」の劇中歌です。

そればかりか、化学用語を豊かに盛り込んだ宮沢賢治の詩や短歌は、白秋の詩にヒントを得ているのではないかとも、思われるのです☆。

☆(注) 白秋の『東京景物詩及其他』(1913年)所収の「物理学校裏」にある「蒼白い白熱瓦斯の情調(ムウド)が曇硝子を透して流れる。/角窓のそのひとつの内部(インテリオル)に/光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。」という一節は、賢治の1918年の短歌「六月のブンゼン燈の弱ほのほはなれて見やるぶなのひらめき」(歌稿A,#516)などに影響を与えていないでしょうか。

にもかかわらず、賢治は、書簡やメモまで含めても、白秋の名を出したのは、この「小岩井農場」【下書稿】が、唯一の例ではないかと思います。

「夏の日にあの白秋が/雪の日のアイスクリームをほめ」ている詩というのは、白秋の有名な詩「花火」と思われます。

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