ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.1.4


しかし、賢治もまた、限定された社会の諸条件の中で、限界ある生を生きるほかはなかったし、彼を囲繞する条件の厳しさ☆を知る者から見れば、宮澤賢治はよくここまで頑張ったと言えるのです。

☆(注) ギトンが思うには、賢治本人にとって最大の障害は、社会でも肺疾でもなく、自分が同性愛者であるということだったと思うのです。それが重荷となった原因は、当時の社会が同性愛を許さなかった(だから、ほとんど誰にも言えなかった)こと、そして本人もまた同性愛者としてのアイデンティティーを持ち得なかったことが大きいと思います。しかし、これを追究して行くと“宮沢賢治”の全体像に及びますから、この章で扱うには問題が大きすぎます。

多くの‘賢治物語’は、社会的な目配りが乏しくて、問題をもっぱら本人個人の側に探って行くので、結果的に、諸条件を捨象して賢治を“聖人”視することになったり、あるいは逆に、賢治の‘社会意識’の不足を批判することになるのだと思います。

しかし、残念ながら、宮沢賢治という個人の肩に、あれほどの重荷がかからなければならなかった社会の側の原因について、納得できる説明を読んだことがないのです‥‥

そうした疑問を意識しながら、《小岩井農場》と宮澤賢治の関係について、もう一度考えてみたいと思います:

たしかに、小岩井農場の成功は、三菱岩崎家という、巨大な資金力と政府への太いパイプを持つスポンサーがいたからこそ可能になったのかもしれません。しかし、その資金力が、もし、当時一般的だった寄生地主経営の方向に投資されていたとしたら、農民を抑圧する巨大地主がもうひとつ増えただけで終ったことでしょう。
小岩井農場によって実現された進歩的農業経営は、政治的階級的色彩を越えた普遍的価値を持っているのです。

しかも、小岩井農場は、決して当時の政府によってバックアップされていたわけではありませんでした。
むしろ、政府の政策やその変更によって、さまざまな圧力を受けながら★、これを事業の転換と改善によって切り抜け、成果を上げつづけたのだと思います。

★(注) 例えば、小岩井農場が育成した「小岩井ハクニー」に対して、民間の育成する馬種を統制していた政府・馬政局は、中間馬種からハクニーを排してアングロ・ノルマン種に統一することによって、圧力を加えたと云います(『賢治歩行詩考』p.17.)

賢治は、資金力のない農民たちが、小岩井農場を模範とする進歩的経営を志向する方法として、農民たちの共同出資による《産業組合》──第2次大戦後に全面的展開を見た農業協同組合(JA)は、その後身です──を考えていたようです。

その構想は、童話『ポラーノの広場』などに現れていますが、童話に現れた限りで言えば、それは、あまりにも非現実的なおとぎ話だったかもしれません。

賢治は、それほど資金のかからない石灰による土壌改良を考えていたようですが、
小岩井農場の土壌改良は、まず、多額の資金を投入して、全面的な排水工事を行なったうえで実施されているようです。排水などの条件整備が先行したからこそ、石灰の施用による土質改善も、功を奏したのではないでしょうか。

《産業組合》に限らず、小岩井農場のような先進的農業、進歩的経営が、当時なぜ日本の他の部分に広がっていかなかったのか──これは、経済学者、歴史学者にぜひとも解明してもらいたいことです。個々の農民が束になっても、継続的な資金力を持つには足りなかったとしても、政府には、資金があったはずです。財閥は、三菱以外にもありました。技術知識に関しては、多くの学者がいました。

にもかかわらず、《小岩井》が《小岩井》だけにとどまり、日本の残りの部分は、そのすべてが、宮澤賢治のような徒手空拳の篤志家の肩にかかることになってしまったのは、いったい、なぜなのでしょうか?

これまでの日本の歴史学研究界のように、人民闘争史がどうの、軍国主義がどうのと、いくら声高に論じても、そのような方向では、決して解明されることはないと思うのですが‥‥いかがでしょうか?





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