ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.5.8


. 春と修羅・初版本

38(ゆきがかたくはなかつたやうだ
39 なぜならそりはゆきをあげた
40 たしかに酵母のちんでんを
41 冴えた氣流に吹きあげた)
42あのときはきらきらする雪の移動のなかを
43ひとはあぶなつかしいセレナーデを口笛に吹き
44往つたりきたりなんべんしたかわからない

なぜ、賢治は、まるで気でも狂ったかのように、極寒の地吹雪と戯れていたのでしょうか?

それは、40行目で、吹き上がる雪を「酵母のちんでん」と呼んでいるように、心中に深くあった煩悶のためだと思います。凍えるような吹雪に身を任せてはじめて、心の奥底にある灼けるような煩悶☆が、昇華して行くのを感じたのではないでしょうか?

☆(注) その時の自分を「わたしは」と言わず、まるで他人のように「ひとは」と言っていること、また、地吹雪の中をあえて何度も往復するという“正気の沙汰”とは思えない行動を見ても、1月頃の作者の煩悶は、並大抵のものではなかったことが分かります。しかし、それを、宮澤賢治は、なんとスマートに表現していることでしょうか!‥賢治詩の理解を難しくしているひとつの原因は、この超人的とも言うべき韜晦を経たスマートさにあると思います。。 清六氏は、1月6日の「屈折率」のスケッチ行に向かう兄・賢治を、「黒い外套の襟を立て、〔…〕深く深くうなだれ、〔…〕岩手山の方へ歩いて行く、二十七歳の『春と修羅』の著者を考えよう」という言葉で始めています(「『春と修羅』への独白」,in:『兄のトランク』,ちくま文庫,p.99)。「深く深くうなだれ」た姿が、賢治の内実であったのです。気丈な人も、肉親や親友には、弱い表情をかいま見せるものです(その親友であった保阪が欠けてしまった打撃の大きさは、はかりしれません‥)

それでは、その灼けるような煩悶は、何だったのでしょうか?…

ひとつには、外から促されて、いきなり教育の現場に放り込まれ、未経験なうえに担当教科の知識も十分でないために★、悪戦苦闘していたということがあるでしょう。とくに、いくら熱意を込めても、生徒たちはじっと沈黙するだけ──という状況が、賢治には、もっとも応えたはずです◇

★(注) 宮澤賢治は、盛岡高農では、農芸化学・地学を中心とする“農学第2部”に属していました。しかし、農学校で担当したのは、主に、育種栽培などの本来の農学とその実習でした。

◇(注) 佐藤通雅『宮沢賢治から〈宮沢賢治〉へ』,pp.67-77.

しかし、それだけでは、極寒の地吹雪に身を曝さなければならない“灼けるような”煩悶の意味は、明らかになりません。

ギトンは、菅原千恵子氏も指摘するように◆、1921年における保阪との決裂、それにからんでの宗教的信念の動揺が、大きかったのだと思います。

◆(注) 『宮沢賢治の青春』,角川文庫,pp.162f,178-179. なお、いんとろ【8】たったひとりの恋人:保阪嘉内

賢治は、かつて保阪に対しては、著しく我儘‥、時には幼児的とさえ言える彼の内実を、さらけ出していたことが、書簡を見るとよく解ります。それを、保阪が正面から受け止めていたのか、それとも迷惑に感じつつ我慢していたのかは、別の問題です。ともかく、賢治の性格は、保阪のような“さらけ出せる相手”を、ぜひとも必要としていたのです。

ところが、その保阪との間が破綻して半年もしないうちに、突然の就職という、おそらく彼の人生で最も大きな試練■に立ち向かわなければならなかったのです。
賢治は、もっとも頼りになる支柱を失った状態で、この試練に遭遇したのだと思います。

■(注) 就職は、誰にでも訪れる通過点にすぎないと思うかもしれませんが、社会的不適応の面がある人にとっては、そうした人並みの経験こそが、もっとも大きな試練となるのです。

煩悶の主な内容は、決定的‘不可能性’となった保阪に対する恋情であったとギトンは考えますが、もうひとつの原因である・慣れない職業生活の困難さも、保阪を失ったがゆえに倍加したと思うのです。

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