ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.5.6


. 春と修羅・初版本

26あんまりひばりが啼きすぎる
27(育馬部と本部とのあひだでさへ
28 ひばりやなんか一ダースできかない)

「‥やなんか」という言い方は、方言なのでしょうか?‥このような使い方は、関東の者にはちょっと変な気がします。ヒバリ以外の鳥も含めて…のように聞こえてしまうからです。しかし、前後の文脈から、ヒバリだけの数が「一ダース」どころかもっと多い──と言っているのは、まちがえありません。

次のような用例もあります:

「『おまえたちはみんなまっ赤な帆船(ほぶね)でね、いまがあらしのとこなんだ』
 『いやあだ、あたしら、そんな帆船やなんかじゃないわ。せだけ高くてばかあなひのき。』ひなげしどもは、みんないっしょに云ひました。」
(『ひのきとひなげし』)

そこで、「やなんか」→「などは」と言い換えてみると、納得できます。「ヒバリやなんか」は、「ヒバリは‥」を強調した言い方なのだと思います。

《逢沢》の谷地をおおうように、20羽前後のヒバリが、舞い上がっては囀っているのです。

ヒバリは、人家や耕地から少し離れた荒蕪地や原野に多いです:画像ファイル・ヒバリ

当時は、農場の約半分が、まだ耕地化されていない・木もほとんど生えていない原野だったそうです(『賢治歩行詩考』p.48)。そのために、ひばりは非常に多かったのです。

現在では、もう小岩井農場では、ヒバリが減ったようですが、秋田や津軽の低山帯あたりでは、今でもたくさんいます。ゴールデンウィークのころに行くと、ひばりの合唱に遭遇することがあります。ちなみに、畦のどぶのような場所で、水芭蕉が大きな花弁をだらしなく広げていますし、ほおの木は、ぬめぬめとした花軸をエロチックに突き立てています。ホオノキは関東にも多いですが、こんなふうに咲いているのは初めて見ました。山の斜面にはまだ残雪がありますが、その雪かげから、白やうす紫のイチゲの花が覗きます。
冬の間抑えられていた自然の欲望が爆発するような北国の春は、じつに官能の香りにあふれているのです。

29そのキルギス式の逞ましい耕地の線が
30ぐらぐらの雲にうかぶこちら
31みぢかい素朴な電話ばしらが
32右にまがり左へ傾きひどく乱れて

「キルギス」は、モンゴル高原の北方(バイカル湖付近)にいたトルコ系(人種は白い肌と青い目で、ヨーロッパ系とも云われる)の遊牧民。匈奴、モンゴルと戦い、ウイグルを滅ぼした。
現在、もっと西方の天山方面に、キルギス共和国を中心とする住民“キルギス人”がいますが、↑歴史的民族キルギスの子孫なのどうかは不明です。

賢治が考えていたのは、モンゴル北方の歴史的キルギス人のほうでしょう。

この「逞ましい耕地の線が/ぐらぐらの雲にうかぶ」と言っているのは、「下丸2号」という20ヘクタールを超える広大な畑のことです:地図「農場中心部」 ←「下丸2号」は、《農場本部》の西側、「馬トロ☆軌道」(現在のバス通り) と川(越前堰) の間のスロープを占めていたそうです。広いスキー場くらいある耕地面が、緩やかなスロープを作り、その果ては雲の中に消えてゆくようだったといいます(『賢治歩行詩考』p.49)。

☆(注) 「馬トロ」は、小岩井農場にあった簡素な軌道馬車で、荷物の運搬や作業員の移動に使っていました。「トロ馬車」とも言います。この1922年当時は、《農場本部》付近と、育牛部近くの製乳所(現在、県道沿いに土産品売店があるあたり)の間を結んでいましたが、まもなく小岩井駅まで延長されます:⇒写真11。現在では、“まきば園”奥の「長者館耕地」で、観光用「馬トロ」のみ運行されています。

「キルギス式の逞(たく)ましい耕地の線」とは、この広大な耕地に、草原を疾駆する遊牧民キルギスの精悍なイメージを重ねているのだと思います。

「ぐらぐらの雲」は、積雲の盛り上がりでしょうか。湧き上がる入道雲を背景に、耕地のスロープの稜線がくっきりと浮かびます。その「こちら」側の耕地の上に、電話線が通っています。

「みぢかい素朴な電話ばしら」は、小岩井農場内の各所と、盛岡市内にある肥料店をむすんでいた私設電話線(⇒写真 (t))。その電柱は、冬の積雪の重みで、左右に傾いてしまっていました。




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