ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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《N》 降りしきる魂のしずく



【27】 小岩井農場・パート4





3.5.1


. 春と修羅・初版本

01本部の氣取つた建物が
02櫻やポプラのこつちに立ち
03そのさびしい観測臺のうへに
04ロビンソン風力計の小さな椀や
05ぐらぐらゆれる風信器を
06わたくしはもう見出さない
07さつきの光澤(つや)消けしの立派の馬車は
08いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。
09五月の黒いオーヴアコートも
10どの建物かにまがつて行つた
11冬にはこヽの凍つた池で
12こどもらがひどくわらつた
13(から松はとびいろのすてきな脚です
14 向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか
15 それとも野はらの雪に日が照つてゐるのでせうか
16 氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです
17 おまへさんたちの頬つぺたはまつ赤ですよ)

「パート四」に入ります。

この部分は【序説】でいちど扱っているので、まずそちらを見ていただくとよいかもしれません:【序説】・3・p.3

つまり、1-2行目は、作者がいま見ている・そのままの《小岩井農場本部》。

3-6行目は、じつは過去(1921年以前の無雪期)の回想です。この1922年には、「観測台」自体が、もう無かったのです。
「観測台」は、作者の《心象》に存在するのです。

7-8行目は、現在の状況ですけれども、《本部》の前を歩いている作者からは見えないはずの光景です。だから「いまごろどこかで」と言っています。

9-10行目は、いちおう現在の現前状況ですが、作者が見ているのは、後ろから歩いて来るはずの「五月の黒いオーヴアコート」の医師が、いまは見えない、というマイナス(不存在)の映像です。

そして、11-17行目は、この冬──おそらく1922年1月6日──に、ここへ来た時に作者が見た状況です。
ただし、

16 氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです
17 おまへさんたちの頬つぺたはまつ赤ですよ)

などの・子どもたちへの呼びかけは、当時の会話の再現ではなく(実際の賢治と子どもたちとのやりとりは、方言で、もっとぞんざいなものだったでしょう)、5月の現在時に、回想の《心象》世界の子どもたちに対してなされているのです。

《農場本部》の建物は、明治36年建築の2階建て木造建物で、現在も使われています。見るからに洒落た明治時代風(鹿鳴館風?)の木造建築で、当時は、飾りつきポーチ、バルコニー、時計台、望楼が付いていました☆。「気取った建物」と言っているのは、そのことでしょう。現在は、バルコニーと時計台が無いようですが、修築があったのでしょうか:写真 (o) 地図A,写真4

「櫻」は、今も《本部》の脇にある老桜(当時は若木)のようです。

☆(注) 『賢治歩行詩考』,pp.36-38. なお、岡澤氏によれば、ポーチには瓔珞飾りが下がっていたそうです。「小岩井農場」と同日付の作品〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕は、賢治がどこかの寺院で瓔珞飾りを見て、触発されて書いたものと思っていましたが、《農場本部》建物の瓔珞だったのかもしれません。

「観測台」は、農場が国の依頼で気象観測をしていたのだそうです。盛岡測候所が開所したのは1923年で、それまでは岩手県の内陸には、公の気象観測施設がありませんでした。そこで、水沢の天文台で気象観測を行なう一方、各地の事業所に国が依頼して、気象観測場所を設けていたそうです。
小岩井農場では、《農場本部》のすぐ近くに、本部の屋根よりも高い気象観測用の櫓を建て、風力計、風信器(風向計)などの気象観測機械を置いて観測していました。

画像ファイル・気象観測台 ←こちらに、当時(1907年頃)の写真があります。
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