ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
4ページ/184ページ


3.1.3


こうして、場主岩崎久彌と初代場長赤星陸治によって基礎を築かれ、当時の農業としては著しく進歩した経営によって注目すべき成果を挙げていた小岩井農場は、農学徒・宮澤賢治にとっては、まさに「新鮮な奇蹟」(「小岩井農場・パート1」)以外の何ものでもなかったのです。

次に、当時の小岩井農場の概要を説明しておきたいと思います:地図:小岩井農場

国鉄・橋場軽便線・小岩井駅から、原野の中の道を北方へ約3km歩くと、農場の境界に達し、ここには当時、「小岩井農場」と記された入口の柱や、‘もの売りお断り’の立て札などが立っていました。

農場の組織は、育牛部、育馬部、耕耘部、樹林部に分かれ、本部と各部の事務所が、それぞれ農場内に置かれていました。

農場内には、馬に挽かれてレールを走るトロッコ「馬トロ」が敷設され(当時は業務用。現在は、観光用に運行しています)、盛岡市内の商店(肥料等農業資材販売店)につながる私設の電話線が架設されていました。




小岩井農場の「馬トロ」(現在・観光用) 長者館耕地を行く

農場内、耕耘部の近くには、小岩井尋常小学校があり、従業員の子供たちがかよっていました。
前記の“農場入口”の約200m内側には、農場直属の医院もありましたが、この1922年当時は閉鎖されており、盛岡市内から嘱託医師が往診のために来場していました☆

☆(注) 『賢治歩行詩考』pp.4-5,26-32,34-35,49-50.

農場内の耕地は、大きく区画されて、「下丸七号」「長者館二号」といった名称を付けられ、林地も、事業区ごとに林班と小班に区分されていました。
耕地の号区画は、ひとつひとつが外部の村落地区に匹敵するほどの広さでした。

西欧式の穀草輪作農業でしたから、各耕地は交替で畑地または牧草地として使われていたと思われます。
したがって、水田のように細かく畦で区切るようなことはなく、30ヘクタールを越える広大な耕地が、多人数の労働者の集団作業によって一度に作付けされていました(同,pp.98-99)

各従業員の居宅には、自家用菜園が給与されていましたが、それ以外の農場の耕作・牧畜は、すべて、会社組織の共同作業で行われていました。
そうした組織的な集団労働には、個々の従業員にとっては厳しい面もあったと思われます。宮沢賢治は、農場のそうした面も敏感に察知して、この詩の「パート7」などに描いています。

しかし、各農民に田畑を貸して、収穫の半分を超える高額の小作料を搾取した当時一般的な半封建的寄生地主経営と比べれば、
小岩井農場における企業的集団農業は、経営効率の面からも、また、農民労働者に対する人道的取り扱いの面から言っても、まさに雲泥の差があったことは事実と思われます。

寄生地主経営による水田稲作は、小岩井農場では、いっさい行われていなかったのでした。


  【賢治研究における小岩井農場の位置】


さて、以上、作品の題材である《小岩井農場》そのものについて、作品理解の前提として、やや詳しく述べてきましたが、

ここで、宮沢賢治の伝記等での小岩井農場の扱いについて、少し述べておきたいことがあります。

宮澤賢治は、身近な稗貫郡の農業の改良のためにさまざまな努力をし、農民たちの手助けをしようとして、農民芸術活動や無料の肥料設計、労農党の活動援助などをしたが、力尽きて倒れ、短い生涯を閉じたと云われています。
それは、まったくそのとおりです。

そして、賢治の‘失敗’の内実として、科学や宗教は解っていても、政治経済的な社会の条件や仕組みが解っていなかったと批判されたり、‘社会的被告’★として負い目を持ち、農民たちから理解されなかったという同情を向けられたりします。

★(注) 賢治の家は、花巻の豪商・宮澤家に連なる“宮澤マキ”と指称される地元旧家の一族に属していました。この指称は、“特権階級”の標識であると同時に、“肺病やみ”の家系としての差別をも含意していたのです。賢治の父・政次郎は、祖父が創業した古着商(その内実は貧乏人相手の質屋・高利貸し)を営み、蓄積した資金を、電力や温泉開発(身売りした農民の娘たちが娼婦として雇われていた)などに出資して増殖している財産家でした。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ