ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.1.2


小岩井農場は、東北本線が盛岡まで延伸した翌年の1891年、
出資者3名(日本鉄道副社長の小野義眞、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝)の苗字から取って‘小岩井’と名づけられ、広大な未開の原野を開拓すべく、開場されました。

創案者であった小野の動機は、鉄道敷設のために潰さなければならなかった耕地面積を、未開の原野を沃野に変えることによって国土に返還したいということにあったようです。

しかし、岩手山の山すそにあるこの地域は、火山灰が厚く堆積し、冷たい西風が吹き下ろす全く不毛の原野でした。
耕地として利用するためには、まず、防風林、防雪林の植林、極度に痩せた酸性土壌の改良といった大規模な基盤整備からはじめなければならず、そこに必要とされる技術と労力は、並みたいていのものではなく、開拓は困難を極めました。

1899年、農場の経営は岩崎家に譲渡され、三菱社3代目社長の岩崎久彌が経営を引き継ぎました。
岩崎久彌は、青年時代に米国ペンシルヴェニア大学に留学して西欧式大規模農業を実地に見ていたことから、
小岩井農場の経営方針を根本的に改め、近代的農畜兼営大農場に方向転換します。

こうして、西欧式大規模農業の経営方式と技術が積極的に導入され、林業、耕耘(主に麦類と飼料作物の栽培)、畜産(育馬・育牛)を根幹とした会社組織の大農場を確立しました。

農民家族経営による零細稲作一本やりだった当時の日本農業の中で、
手間のかかる稲作と家族経営を排し、麦作・畜産の西欧式混合農業を会社組織で行なう小岩井農場は、まことにユニークな存在だったのです。

全国から募集した農民を、農業労働者として組織・教育し、そこへ海外から導入した農業技術と資材を大胆に投入した結果、三菱岩崎家の潤沢な資金力にも支えられて、小岩井農場は、ようやく採算のめどが立つに至ったのでした。

とくに、明治・大正期に小岩井農場の名を高からしめたのは、サラブレッド種競走馬や改良種「小岩井ハクニー」をはじめとする優れた馬種の育成でした☆

☆(注) 岡澤敏男『賢治歩行詩考』,2005,未知谷,pp.16-17.

Wikipedia(赤星陸治)によりますと、

岩崎久彌が経営を引き継いだ当時、

「小岩井農場は多額の累積赤字を抱えており、従業員の待遇は非常に悪かった。
 陸治は農場のオーナーであった岩崎久彌の全面的な支持のもと、従業員の給料を引き上げ、日用品を安く提供し、借金の返済の相談に応じるなど数々の待遇改善策を打ち出した。また農場内の出来事や行事の報告、短歌、俳句、漫画などを収録した『小岩井週報』を発行したが、社内報的な出版物を発行し従業員に配布する発想は当時としては珍しいものであった。」

と言います。

また、岩崎久彌は、商業主義に流されない継続的な農場経営理念を持っていたと云われます。

小岩井農場を引き継いだ当時、久彌は32歳の若社長でしたが、アメリカ留学の経験を活かして、欧米の研究誌から入手した最新知識を農場幹部に教え込み、採算を度外視して、血統牛馬の輸入や、土壌改良のための排水工事を行ない、農場の基盤整備に努めました(『賢治歩行詩考』p.37.)



なかでも、石灰石の細粒を全耕地に施して酸性土壌の改良を行なったことは、賢治に深い印象を与えました。
賢治が、のちのちまで折に触れて、詩の中で“農地への石灰の施用”について述べ(『春と修羅・第1集』「雲とはんのき」、『第2集』「産業組合青年会」など)、病死の3年前には、病いに冒された身体をおして東北砕石工場★のために奔走したのも、
この1922年ころ、小岩井農場の先例を学んで感銘を受けたことが、もとになっているように思われます。

★(注) 1924年、大船渡線の松川に鈴木東蔵が設立した工場。地元で採掘される石灰岩を粉砕して農地改良用の石灰岩末を製造していました。⇒東北砕石工場 東北砕石工場(携帯)

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