ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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【26】 小岩井農場・パート3




3.4.1


. 春と修羅・初版本

01もう入口だ[小岩井農塲]
02 (いつものとほりだ)
03混んだ野ばらやあけびのや[ぶ]
04[もの賣りきのことりお斷り申し候]
05 (いつものとほりだ ぢき醫院もある)
06[禁獵區] ふん いつものとほりだ。
07小さな澤と青い木(こ)だち
08澤では水が暗くそして鈍つてゐる
09また鐵ゼルの fluorescence

1922年当時は、旧・網張街道が農場の敷地境界とぶつかった処に、[小岩井農塲]と書いた大きな標柱と、「禁猟区」などの立札があったそうです。ここが農場の入口でした☆:地図:「小岩井農場」パート1 旧《農場入口》写真2写真 (i)

☆(注) 『賢治歩行詩考』,pp.30-32. 当時の《農場入口》は、現在、「小岩井農場」の標柱が立っているバス通り(県道131号線 網張街道)沿いとは別の場所です。

「医院」は、《農場入口》の200mほど先(北)にありました:写真 (k)

《農場入口》には、道と交差する方向に沢が流れています。《巡り沢》という小さな沢で、これが小岩井農場の南側の境界です:写真 (j)

火山灰土のせいでしょうか、沢は深く掘れ込んで、狭い谷を造っています。
道の下は、いつも暗がりになっていて、底を水がちょろちょろと流れています。

しかし、賢治は:

08澤では水が暗くそして鈍つてゐる
09また鐵ゼルの fluorescence

と書いていて、流れの鈍重な暗さを強調しているのは、創作意図があるからだと思います。

というのは、この2行は【下書稿】には無くて、あとから書き加えられているのです。

「鉄ゼル」は、“鉄ゲル”のこと。“ゲル”は、コロイド溶液が、流動性を失ってゼリー状に固まったものです。

ここで「鉄ゼル」言っているのは、塩化鉄(V)など3価鉄イオンの水溶液にアルカリを加えると生じる・水酸化鉄(V)コロイド(コロイド水溶液またはコロイド状沈澱)★のことと思われます。
これは、赤さびのような赤褐色の濁りです:画像ファイル・水酸化鉄コロイド

★(注) この沈澱の化学組成は、より正確には、酸化水酸化鉄(V)または酸化鉄(V)の水和物(Fe2O3・nH2O)と考えられています。

「fluorescence」(フルオレッセンス)は、英語で「蛍光」のことです。蛍石(ほたるいし)、方解石などの鉱物は、紫外線を吸収して、ぼんやりと青く発光します。ホタルイカや、一部のキノコ、カビなどの生物発光も、(しくみは化学反応による発光で、「蛍光」とは異なるのですが)「蛍光(fluorescence)」と言うことがあります:画像ファイル・蛍光 画像ファイル・蛍光菌

山奥で工事をしている場所や、濁った水たまり、溪水のよどんだ場所では、水面に強い光が当たると、ちょうど水面に油が浮いているような感じに、汚い虹色に反射して見えることがあります。
「鐵ゼルの fluorescence」は、そういう景色を言っているのかもしれません。ただ、じっさいの《巡り沢》は、濁っていないと思いますが‥

03混んだ野ばらやあけびのや[ぶ]

↑この行も【下書稿】には無くて、あとから書き加えられたものです。

03混んだ野ばらやあけびのやぶ
   〔…〕
08澤では水が暗くそして鈍つてゐる

という・いずれも後から加えられた行は、作品「春と修羅」の:

「あけびのつるはくもにからまり
 のばらのやぶや腐植の湿地」

という表現に通じていないでしょうか。

つまり、ここで作者は、
明るい野原を歩きながらも、《心象》の底には、「いつものとおり」の暗く淀んだ風景が展開していることを、確認しているのだと思います。
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