ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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《C》 奇蹟の野はら



【23】 小岩井農場(前注)





3.1.1


. 春と修羅・初版本
「小岩井農場」は、発表された『春と修羅』《初版本》収録形で8082字に達する長詩です。
宮沢賢治の書いた韻文の中では最大ですし、おそらく日本の詩人の中で、これだけの長さでまとまった詩を書いた人は、少ないのではないかと思います。

しかも、遺された下書稿を見ると、推敲の過程で削除された部分が、直されて発表形になった部分と同じくらいあるのですから、
破棄された草稿メモまで含めたら、もとはどれだけ長大な作品だったか分かりません。

これだけの長大な作品を賢治が書いた動機ですが、
ギトンは、習作のためであったと思います。

最初の作品「屈折率」以来4ヶ月あまり、《心象スケッチ》という方法を修練するために、賢治はさまざまな習作を試みてきました(この期間は、習作的な『冬のスケッチ』の作成期間とダブっています)☆

☆(注) じっさいには、『冬のスケッチ』の断片的な短詩群から脱して、『春と修羅』以後の口語詩の創作へと移ったのは、すでに論じたように、1922年3-4月ころであったと推定されます(⇒いんとろ【7】「二十二箇月」問題)。同年1月の日付がある「屈折率」から「コバルト山地」までの詩篇は、3-4月以降に、各日付のスケッチメモを基にして書かれたものだと考えます。

5月18日付の「真空溶媒」(3099字)で自信を得た作者は、いちど、まる一日かけて、じっさいの野外の景物を見ながら“歩行スケッチ”をしてみたいと考えたのではないでしょうか★

★(注) のちほど、「パート4」以後の検討で明らかになるように、賢治は、長詩「小岩井農場」の日付5月21日のほかに、少なくとも2週間前の5月7日にも小岩井農場を訪れて《スケッチ》をしており、何度かの農場《スケッチ》歩行のメモをまとめて、一日の《スケッチ行》として、5月21日付の詩篇に創作しているのです。21日の農場訪問は、あくまでも締めくくりの《スケッチ行》だったと考えなければなりません。

こうして、早速その週末である5月21日(日曜)朝、賢治は、花巻から東北本線で盛岡に行き、そこで橋場軽便線(現:田沢湖線)に乗り換えて小岩井駅で下車します◇

目指すスケッチ場所は、賢治が盛岡中学校在学時いらい何度も訪れていた小岩井農場──それは、西欧式の進歩した有畜大農場経営を実地に行なっており、賢治ら農学徒が敬愛してやまない‘聖地’なのでした:地図:小岩井農場

◇(注) 当時の時刻表によると、賢治の乗った列車は、盛岡午前10時30分発、小岩井10時54分着と思われます。


  【小岩井農場の沿革】


ここで、小岩井農場の沿革データを見ておきたいと思います:小岩井農場・公式HP 小岩井農場・公式HP(携帯)1 小岩井農場・公式HP(携帯)2

21世紀の現在では、‘KOIWAI’のロゴがついた小岩井乳業の製品は全国どこのスーパーにでもありますから、見たことのない方はいないでしょう。小岩井乳業は、小岩井農場を経営している会社の一つです。




小岩井農場・羊放牧場

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