ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.10.19


“西域”と言うと、狭い意味では中央アジアのタリム盆地(東トルキスタン、タクラマカン砂漠)を指します。つまり、新疆ウイグル族自治区のオアシス諸都市です:西域地図 西域全図、ヤルカンド

しかし、『インドラの網』の舞台は、チベットです。

狭い意味での西域を舞台とした賢治の散文作品は、莎車(ヤルカンド)の地名が出てくる『雁の童子』☆くらいです。

しかし、“西域”をもっと広く、チベット、インドからアラビアあたりまで含めるならば、賢治童話のかなりの部分が“西域物”になるのです★:

(中国北辺?)『北守将軍と三人兄弟の医者』

(狭義の西域)『雁の童子』〔みあげた〕

(西トルキスタン)『毒もみのすきな署長さん』

(チベット)『マグノリアの木』『インドラの網』『ペンネンネンネンネンネン・ネネムの伝記』

(インド)『オツベルと象』『学者アラムハラドの見た着物』『四又の百合』『十力の金剛石』『龍と詩人』『二十六夜』〔手紙一、二〕

(ペルシャ・アラビア)『チュウリップの幻術』『ひのきとひなげし』

☆(注) 実は、『雁の童子』のテキストに登場するのは、「莎車」ではなく「沙車」という架空の都市名です。金子民雄氏は、「沙車」は莎車(ヤルカンド)よりも庫車(クチャ,亀茲)ではないかとされます。天山山脈のすぐ麓にある描写が、クチャの地理的位置を思わせるからです。いずれにせよ、「沙車」は、「流沙」(タクラマカン砂漠を指す賢治語)からの発想だと思います。『雁の童子』で、「須利耶さま」の住居は、「少し離れた首都」つまり「沙車」の町の近く、同じオアシスの中にあります。童子の入った「外道の塾」があり、その郊外で3体の「天童」の壁画が発掘された町が、「沙車」にほかなりません。金子民雄『山と雲の旅』1979,れんが書房新社,pp.151,154-160f. 「沙車」と「首都」が同じ町だと考えるのは、「塾」でホームシックになった童子が、一人で「須利耶」の家に帰って来てしまう場面があるからです。西域で(ハイウェイ・バスなどない昔は)あるオアシス都市から別のオアシス都市へ(たとえばヤルカンドからホータンへ)行くのは、生命の危険を伴う冒険であったことを、賢治は、ヘディンの探検記を読んで知っていたはずです。同,pp.105-111,114.

★(注) 金子民雄『宮沢賢治と西域幻想』,pp.11-13.参照。


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