ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.10.18


   ◇◆◇「小岩井農場」──歩行スケッチの成果◆◇◆

『小岩井農場』で実践された賢治の方法、歩きながら見たまま、思いついたままを、メモ帳にスケッチして、詩の材料にするという創作方法は、じつは、詩人の世界ではあまり評判がよくないようなのです。

たとえば、天沢退二郎氏(氏の初期の詩作品には、賢治詩の濃厚な影響が感じられるのですが…)は、次のように論じておられます:

「ぼくは、それらの詩
〔日記の代用の役割を持つ詩──ギトン注〕がひとつの病いを病んでいること、いいかえればひとつの遂に詩と相容れることのない異物に蝕まれながらその侵蝕と自らの成立自体との切りはなしがたい関係に憑きまとわれつづけていることの不健康さを感じて、立ちどまってしまう。」

「日記のいわば代用としての自由詩=心象スケッチは、本来的に、文学でない──文学になりえない──ところがあったのである。」

「しかもその
〔心象スケッチという〕方法の徹底性自体が、それを徹底すればするほど文学──詩作品になりえない日記的な記録性を属性とせざるをえなかった、そんなふうな自己意識の必然のうえに展開されたことを思いみるならば、ぼくらは賢治の詩がその当初からもっていたこのような運命──とでもいうべきものに蝕まれていた──まさしく像的に蝕まれていたという印象に深くつき動かされないわけにいかない。」(『宮沢賢治の彼方へ』,増補改訂版,pp.75,78-79.)

また、客車の窓ごしに風景を見ながらペンを走らせたことによって、かえって‘記憶の底からの「詩」のよみがえり’が妨げられた体験を述べているプルーストの『サント・ブーヴに反駁する』「序文」を引いて、現場スケッチの問題点を指摘しておられます(同、pp.94-95.)

しかし、長詩『小岩井農場』そのものの評価はひとまず置くとしても、そこを源泉にして溢れ出た作品世界は、‘賢治ワールド’の相当部分を占めています。
賢治の‘歩行詩作’という実験は、壮大な成果をもたらしたと言ってよいと思うのです。

試みに、『小岩井農場』で得られたモチーフ、またそこから発展したさまざまなモチーフのつらなりが、‘賢治ワールド’のパーツとなってゆく経路を描いてみますと:

○まず、《ミーランの有翼天使》に関わる“西域三部作”、その他‘西域物’の童話と詩の数々。

○そこから派生した長篇として『ペンネンネンネンネンネン・ネネムの伝記』があります。この童話は、主人公が異界(天上世界)で足を踏み外して人界に転落してしまうシーンを含んでいます。『ネネムの伝記』の発展形が、『グスコーブドリの伝記』です。

○‘西域物’における空想上の新疆・チベットの自然描写は、『銀河鉄道の夜』に流れ込んで、独特の‘天の川世界’を創り上げました。

○『風の又三郎』の‘ガラスの靴’と‘ガラスのマント’が《ミーランの有翼天使》に由来することは、すでに指摘しました。それ以外に、「パート4」の末尾で触れられている『太陽マヂック』(草稿成立は『小岩井農場』より後)にも、赤髪でガラスのマントを着た又三郎が顔を出しています。

○『狼森と笊森、盗森』の成立は、作品日付による限り『小岩井農場』より4ヶ月ほど早いのですが、やはり、この農場に関する作品構想──農場での‘歩行詩作’もその一部──に含まれます。加えて、『小岩井農場』で、「魔弾の射手」⇒“悪魔の狼谷”のモチーフを得たことにより、『狼森と笊森、盗森』の延長上で、土着信仰の深層へと賢治の創作が向って行くきっかけになったと思われます。この方向の先には、晩年のさまざまな文語詩作品があります。

ところで、“西域三部作”という言い方をしましたが、宮沢賢治本人は、どれを“三部作”と考えていたのか‥
それは憶測するしかないので、論者によって、内容はまちまちです。

しかし、ふつうは、『マグノリアの木』『雁の童子』『インドラの網』あたりになるようです。
この3作いずれも、『小岩井農場』から派生した作品であることは、すでに指摘しました。

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