ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.10.17
すでにお気づきと思いますが、ギトンもまた、この“反恋愛論”は評価できないと思っています。
@すべての人間、動物、および「万象」が「いっしょに」至上の幸福に至ることを願うのが《宗教情操》。
A《宗教情操》から「砕け」「疲れ」て、自分ともう一つの魂だけが「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」変態が《恋愛》。
B戀愛の本質的な部分は、欲望を追求する「方向では/決して求め得られない」のに、それを、もっぱら欲望によって「むりにもごまかし求め得やうとする」傾向が《性慾》。
と‘定式化’します。自ずから《宗教情操》>《恋愛》>《性慾》が絶対的な価値序列とされていることになります。
73すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
74さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
とは、どういうことでしょうか?‥
生物(いきもの。動植物、神仏、妖怪を含む)の種類によって、《性慾》だけの生物もいれば、《宗教情操》だけで《恋愛》も《性慾》もない生物もいる──と言いたいのでしょうか?
しかし:
75この命題は可逆的にもまた正しく
76わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
「可逆的にもまた正し」いとは、《性慾》なくして《恋愛》は無く、《恋愛》なくして《宗教情操》などありえないという意味でしょうか?!‥もしそうなら、ギトンのような凡人は、宮沢賢治の肩を持ってもいいと思うのですがw。。。どうも、そうではないようです。
すぐに続けて、「あんまり恐ろしいことだ」と言っているところから推せば、
《性慾》⇒《恋愛》⇒《宗教情操》というように‘昇華’し高まってゆく(賢治の考える)‘本来の’方向とは逆に、
《宗教情操》⇒《恋愛》⇒《性慾》というように‘堕落’してゆく場合もある──自分は今まさにそれかもしれない、ということではないでしょうか?
78それがほんたうならしかたない
などと賢治は言うのですが‥
そこまで言うくらいなら、@>A>Bの図式のほうを御破算にしたらどうなんだと言いたくなりますw
それはともかく、賢治が、この時点で、すくなくとも“公式的”には、恋愛を上のAのようなものとして考えていたということは、彼の他の作品を読む場合の参考にはなると思います。
つまり、@の「ねがひから砕けまたは疲れ」ていると、賢治が書くときには、彼は、Aの意味での《恋愛》をしているのだと。。
たとえば、次の詩句のように:
「おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ」(無聲慟哭)
作者のこの《恋愛》の対象が、「おまへ」つまりトシ子とは、別の人間であることは、文脈上あまりにも明らかだと思います。。。
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