ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
182ページ/184ページ


3.10.17


すでにお気づきと思いますが、ギトンもまた、この“反恋愛論”は評価できないと思っています。

@すべての人間、動物、および「万象」が「いっしょに」至上の幸福に至ることを願うのが《宗教情操》。

A《宗教情操》から「砕け」「疲れ」て、自分ともう一つの魂だけが「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」変態が《恋愛》。

B戀愛の本質的な部分は、欲望を追求する「方向では/決して求め得られない」のに、それを、もっぱら欲望によって「むりにもごまかし求め得やうとする」傾向が《性慾》。

と‘定式化’します。自ずから《宗教情操》>《恋愛》>《性慾》が絶対的な価値序列とされていることになります。

73すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
74さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある

とは、どういうことでしょうか?‥
生物(いきもの。動植物、神仏、妖怪を含む)の種類によって、《性慾》だけの生物もいれば、《宗教情操》だけで《恋愛》も《性慾》もない生物もいる──と言いたいのでしょうか?

 

しかし:

75この命題は可逆的にもまた正しく
76わたくしにはあんまり恐ろしいことだ

「可逆的にもまた正し」いとは、《性慾》なくして《恋愛》は無く、《恋愛》なくして《宗教情操》などありえないという意味でしょうか?!‥もしそうなら、ギトンのような凡人は、宮沢賢治の肩を持ってもいいと思うのですがw。。。どうも、そうではないようです。

すぐに続けて、「あんまり恐ろしいことだ」と言っているところから推せば、

《性慾》⇒《恋愛》⇒《宗教情操》というように‘昇華’し高まってゆく(賢治の考える)‘本来の’方向とは逆に、

《宗教情操》⇒《恋愛》⇒《性慾》というように‘堕落’してゆく場合もある──自分は今まさにそれかもしれない、ということではないでしょうか?

78それがほんたうならしかたない

などと賢治は言うのですが‥
そこまで言うくらいなら、@>A>Bの図式のほうを御破算にしたらどうなんだと言いたくなりますw

それはともかく、賢治が、この時点で、すくなくとも“公式的”には、恋愛を上のAのようなものとして考えていたということは、彼の他の作品を読む場合の参考にはなると思います。

つまり、@の「ねがひから砕けまたは疲れ」ていると、賢治が書くときには、彼は、Aの意味での《恋愛》をしているのだと。。

たとえば、次の詩句のように:

「おまへはじぶんにさだめられたみちを
 ひとりさびしく往かうとするか
 信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
 あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
 毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき
 おまへはひとりどこへ行かうとするのだ」
(無聲慟哭)

作者のこの《恋愛》の対象が、「おまへ」つまりトシ子とは、別の人間であることは、文脈上あまりにも明らかだと思います。。。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ