ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.10.15


なお、「パート9」【下書稿】の:

「羅は透き うすく、そのひだはまっすぐに垂れ鈍い金いろ、」

という部分は、他の“西域童話”『学者アラムハラドの見た着物』にも、対応が見られます:

「アラムハラドは〔…〕自分の室に帰る途中ふと又眼をつぶりました。さっきの美しい青い景色が又はっきりと見えました。そしてその中にはねのやうな軽い黄金いろの着物を着た人が四人まっすぐに立ってゐるのを見ました。」

この童話は、残念なことに、クライマックスの部分が散逸していますが、

おそらく、クライマックスでは、激しい雨の降り出したジャングルの中で、「軽い黄金いろの着物を着た」4人の天の人物が、アラムハラドと生徒たちの前に現れたのではないかと、推定されます。







   ◇◆◇ユリア、ペムペルと《アザリアの仲間》◆◇◆

ところで、「〔みあげた〕断片」には、次のような部分がありました:

「壁はとうにとうにくづれた。砂はちらばった。そしてお前らはそれからどこに行ったのだ。いまどこに居るのだ。」

「お前ら」は、‘ミーランの3人の天使’と解されますが、‘《アザリア》の3人の仲間’でもあると考えてみてはどうでしょうか。そのほうが、「お前ら」という言い方がしっくりくるような気がします。

かつて4人で描いた‘理想の壁画’は、「とうにとうに」粉々に崩壊してしまった。…そして、3人の仲間は、「いまどこに居るのだ」と、作者は叫ぶのです。それが、「パート8」から派生した断章です。

そして、「パート9」では、「聖なる地」の奥にある‘4本の桜’(賢治も含めた4人の絆の象徴)に出会うことによって、懐かしい3人の仲間の魂に、想像の世界で触れることができたのです。

それは、‘ミーランの天使像’によって触発され抱かれた‘3人の仲間’との途切れることのない絆に違いない…

このように解釈することによって、「パート9」の:

29きみたちとけふあふことができたので
30わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
31血みどろになつて遁げなくてもいいのです

という部分も、よりよく理解できるのではないかと思います。

それぞれの魂が前世から来世へと向かって行く「巨きな旅」の中で、あるとき出会い、互いに心を通わせ理想を抱いた「一つづり」の日々、そしてすべてが突き崩れてしまった悔恨の日々から、「血みどろになつて遁げなくてもいい」──「遠いともだち」との魂のふれあいは、贖罪のような安堵感を与えてくれたのです。

もちろん、すでに説明したように、↑【初版本】のこの部分は、【下書稿】では、

「おゝユリア、あなたを感ずることができたので‥」

と、ユリア(保阪)ひとりに対する呼びかけになっていました。

《アザリア》の3人との魂のふれあいになったのは、22年8月以降と推定される推敲過程においてです。

つまり、推敲過程で、“恋人保阪への‘血みどろ’の依存感情が、《アザリア》の仲間たちへの懐かしさへと昇華した”とは言っても、
その仲間たちへの思い自体、けっして単なる‘昔はよかったなあ’という懐旧などではなく、
“壁はとうに崩れた‥壁に描かれていた意志堅固な表情の仲間たちは、どこへ行ってしまったのか?”‥という真摯な問いかけにほかならないのです。

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