ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.10.11


. 春と修羅・初版本

83明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
84馬車が行く 馬はぬれて黒い
85ひとはくるまに立つて行く

「明るい雨」と「ぬれて黒い」馬──2つの風景が、作者の外で、作者の感情にはおかまいなく、それぞれ自己主張しているかのようです。
これを‥、みな作者自身の《心象》だということを重視するならば、作者の自我の‘分裂’だと言わなければならないでしょう。しかし、賢治作品では、こうした“景物の自己主張”は珍しくないのです☆

☆(注) 佐藤通雅『宮澤賢治の文学世界』,p.49-50,54-60. たとえば:「ちばしれるゆみはりの月わが窓にまよなかきたりて口をゆがむる」(歌稿A #94)

ともかく、いま、「明るい雨」の楽しさ──さきほど【下書稿】では、ペムペルに「何という透明な明るいことでせう」と呼びかけていました──と、「馬はぬれて黒い」馬車とが、それぞれの“感情”を主張していることを見てとればよいのだと思います。

この「馬車」は、農場の《馬トロ》です。「くるまに立つて行く」「ひと」は、《馬トロ》の馭手です。降雨に身を曝しながら、トロッコの上に直立している馭手の姿は、作者に勇気を注ぎ込むものであったはずです。

作者は、いま、《馬トロ》軌道と交差する“白樺の交差路”付近に差しかかっていることが判ります★:小岩井農場略図(1)

★(注) 『賢治歩行詩考』,pp.142-143.

 

86もうけつしてさびしくはない
87なんべんさびしくないと云つたとこで
88またさびしくなるのはきまつてゐる
89けれどもここはこれでいいのだ
90すべてさびしさと悲傷とを焚いて
91ひとは透明な軋道をすすむ
92ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
93雲はますます縮れてひかり
94わたくしはかつきりみちをまがる

「ラリツクス」は、カラマツ属の学名(Larix)。「いよいよ青く」は、芽吹いて枝先が青くなってきた農場のカラマツを言っています。

93雲はますます縮れてひかり

↑ギトンは、これは、日がまた差して雨が上がりつつある輝かしい空を描いているのだと、単純に見ておいてよいと思うのです。
「屈折率」でも、「向ふの縮れた亜鉛の雲」は、暗さ不安定さは否定できないものの、とりあえず、歩いてゆく作者の目標となっていたと思います。

また、この“縮れ雲”に背を向けて「みちをまがる」とは書いてありません◇。むしろ、輝かしい“縮れ雲”に生気を注がれて、まっすぐに小岩井駅へと向かう旧・網張街道のほうへと曲がる──生気を回復して、町と“人々の間”へと戻ってゆく──というふうに理解したほうが、すなおではないかと思います。

「明るい雨」、「馬はぬれて黒い」馬トロ、芽吹くカラマツ、光る“縮れ雲”、‥こうしたすべてが、作者に生気を吹き込んでいるのです◆

◇(注) 岡澤氏は、賢治・嘉内《訣別》説を前提としているために、「かつきりみちをまがる」を、保阪のキリスト教思想と訣別して、東洋的な仏教思想に、つまり“東”の方向へ道を曲がるのだと解釈しておられます(op.cit.pp.144-145)。しかし、保阪嘉内はキリスト教信者ではありませんでしたし、キリスト教のどれかの宗派を宮沢に勧めたこともありません。むしろ、ギトンは、保阪の書いたものを読むと、ドストエフスキー的な無神論を想起します。『罪と罰』のラスコーリニコフの独白によく似ているのです。

◆(注) なお、上の86-94行はすべて、【下書稿】より後の加筆部分です。

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