ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.10.10
. 春と修羅・初版本
45さつきもさうです
46どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
47 《そんなことでだまされてはいけない
48 ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
49 それにだいいちさつきからの考へやうが
50 まるで銅版のやうなのに氣がつかないか》
「さつき〔…〕あの瓔珞をつけた子」は、往路の「パート4」で出会った小学生の一団のことです。
【下書稿】では、「透明な魂の一列」と言っています。
47-50行は、そうした幻想を否定しているのですが、
48 ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
という言い方で、“二重の風景”(人界と異界の重複存在)の実在を前提してしまっています。
50 まるで銅版のやう〔…〕
は、天上界の地面(水面)が空中に張られていることを示唆する発言になってしまっています。
↑これらは、【下書稿】より後の推敲で大幅に書き換えられた結果なのですが、やはり数度の推敲を重ねても、これらの“幻想”を否定し去ることはできなかったようです。
51雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
52あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野53はらも
54その貝殻のやうに白くひかり
55底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
【下書稿】で詳しく書かれていた、降雨を遡行して昇ってゆくヒバリ、紅く燃え上がる大地をものともせず、作者の両脇を歩行しつづける「ユリア」「ペムペル」──“天の子供ら”──は、↑整理されて、こんな簡単な描写になってしまいました。
「赤い火の野原」を「赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はら」に変えて、童話『ひかりの素足』に描かれた地獄の光景に近づけています。
「底の平らな巨きなすあし」は、如来(仏)の身体の特徴に近づけています:
つまり、雨の中の「小岩井農場」スケッチの生々しい《心象》を、宗教的・観念的な形象にすり替えて‘処理’しようとしているのです。
56 もう決定した そつちへ行くな
57 これらはみんなただしくない
58 いま疲れてかたちを更[か]へたおまへの信仰から
59 發散して酸[す]えたひかりの澱[おり]だ
【初版本】では、ここで、これまでに書いた(何度推敲しても消しきれずに残っていた)“幻想”をことごとく否定し去っています。
57 これらはみんなただしくない
「ただし」いかどうかが、判断基準になってしまっているのです。。
これでは、「序詩」で:
「これらについて人や銀河や修羅や海膽は
〔…〕
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
〔…〕記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで」
と、ほとんど居直りのような自信に満ちて述べていた《心象スケッチ》の方法論を、自ら否定して取り下げているに等しいのではないでしょうか?‥
そういうわけで、【初版本】58行目「ちいさな自分を‥」以下の長大な“演説”──‘反恋愛論’とも言うべき空虚な「本体論」──は、この長詩の締めくくりとしては、あまりにも腰砕けではないかと、ギトンは思います。
そこで、この“演説”については、あとでまとめて検討するとして、今は飛ばして次へ行きたいと思います。
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