ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.10.8
以上のような、胸の底から絞り出て来たような“叫び”は、何度かの加除を経たあと、【初版本】では、次のような僅か3行の形になっています。もう一度、確認しておきましょう:
. 春と修羅・初版本
29きみたちとけふあふことができたので
30わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
31血みどろになつて遁げなくてもいいのです
「ユリア」だけが対象だったのを、《アザリア》の「きみたち」にして、ぼかしています。「人生の経営」「さびしい旅」は「巨きな旅」に変り、この世界と人生に対する信頼感が回復しているようです。
しかし、【初版本】テキストの17-28行目を飛ばしてしまったので、少し戻りたいと思います:
17 《幻想が向ふから迫つてくるときは
18 もうにんげんの壊れるときだ》
19わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
20ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
21わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
22きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
23どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
24白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
25 《あんまりひどい幻想だ》
26わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
27どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
28ひとはみんなきつと斯ういふことになる
17-18行と25-28行は、【下書稿】には無かった加筆ですが、「ユリア」ほか《アザリア》の幻影を、しきりに「幻想が向ふから迫つてくる」「ひどい幻想だ」などと言って否定しようとしています。
20ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
21わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
22きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
23どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
24白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
↑この部分も加筆ですが、農場でのスケッチから何ヶ月か経ったあとの推敲の際にも、
また新たな幻想が生じてきています。
しかし、今度の幻想は、「ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ」となって、保阪ひとりに対する心の叫び、“恋人”への依存感情は、薄らいでいます。
そして、その代りに、遠方にいる仲間たちへの思いが前面に出て来ているのです。
「白堊系の頁岩の古い海岸」とは、花巻の《イギリス海岸》ではないかと思います。
この1922年8月、賢治は、生徒たちと《イギリス海岸》で遊泳中に、偶蹄類の足跡化石と胡桃類の化石を発見して、標本を採取しました。その状況は、散文『イギリス海岸』に描かれているのです。
したがって、23-24行目の加筆は8月以降と思われます。
恋人への断ちがたい依存感情から、遠方の仲間たちを思うノスタルジアへ、さらに、地質時代の動物たちに対する悠久の思いへと、次第に感情の向けられる対象が広がり、昇華して行っているのが分かると思います。
ともかく、作者はこうして、深層に抑え込まれていた恋愛感情を和らげ、解決しようとしているのだと思います。
32 (ひばりが居るやうな居ないやうな
33 腐植質から麦が生え
34 雨はしきりに降つてゐる)
ここは、【下書稿】に遡って見てみますと:
. 「小岩井農場・パート9」【下書稿】
「[ひばりがゐるやうな居ないやうな。]
ペムペルペムペル これは
何といふ透明な明るいことでせう。
腐植質から燕麦が生え
雨はしきりにふってゐる。」
となっていて、もとは「ペムペル」への呼びかけとして書かれていることが分かります。
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