ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.10.5


21年12月の賢治から嘉内宛の手紙[書簡番号199]を見ると:

「暫らく御無沙汰いたしました。お赦し下さい。度々のお便りありがたう存じます。私から便りを上げなかったことみな不精からです。済みません。〔…〕」

とあります。《訣別》後とされる8月以後も、少なくとも嘉内から賢治への通信は、「度々(たびたび)」していたのです。

この手紙の中で、賢治は、

「学校で文芸を主張して居りまする、芝居やをどりを主張して居りまする。」

等々書いています。賢治のほうから、文芸や演劇を話題にしたのは、おそらくこの手紙が初めてではないかと思います。法華経を話題にするのはもはや断念して、保阪の‘得意分野’の文学・演劇を話題にしているように思えるのです。
そして、手紙の最後では:

「春になったらいらっしゃいませんか。関さん
も来ますから。 さよなら。」

などと、花巻に遊びに来てほしいと言っているのです。

果たして、これが、《訣別》後の手紙なのでしょうか?!‥★

☆(注) 盛岡高等農林学校の恩師・関豊太郎元教授。関氏は、この時点では、東京・西ヶ原の農林総合研究所に勤務していた。

★(注) もっとも、この柔かい調子の手紙は、かえって保阪を憤らせたかもしれないと、ギトンは思います。あれだけ偉そうに、法華経に入信しろ、日蓮に絶対服従しろと言っておいて、自分のこの変りようは、いったい何だ!!‥というような。。。 保阪は、この手紙を受け取った後の1922年2月、河本発行の同人誌に、宮澤の“日蓮宗折伏”を「僭越至極」と批判する一文を寄せています。

そういうわけで、
1921年7月が、決定的な《訣別》事件ではないのだとすれば‥、衝突と仲直りを繰り返しながら、次第にそれぞれが自分の道を見つけて離れて行ったのだとすれば、

「小岩井農場」で、賢治が嘉内を、ことさら無視するように、「外れてしまった」の一言で片付けるのは、腑に落ちないのです。。。
それでは、何よりも、嘉内との“ふたりだけの歌詞”を上段に並べて、ほがらかに歌い歩いている作品「習作」とバランスが、取れなくなります。

. 「小岩井農場・パート9」【下書稿】

「ユリアが私の右に居る。私は間違ひなくユリアと呼ぶ。
 ペムペルが私の左を行く。透明に見え又白く光って見える。
 ツィーゲルは横へ外れてしまった。
【みんな透明なたましひだ。】」




「ユリア」を保阪と見れば、「私は間違ひなくユリアと呼ぶ。」と言っている意味も分かります。嘉内に対する愛憎の複雑な感情に悩んだ末に、やはり保阪は大切な“心友”だ──と確信して、「間違ひなくユリアと呼ぶ」と書いているのではないでしょうか。。。

もっとも、「ユリア」が保阪を指しているというのは、あくまでも状況証拠による推論でして、事実の問題──つまり、昭和時代史、あるいは宮沢賢治伝といったタイトルの下では、断定できることではないかもしれません。
保阪が「ユリア」というニックネームで呼ばれていたという証言も無ければ、賢治の手紙や、作品以外のメモや日記に、「ユリア」という名で保阪が登場したことも無いのですから。

しかし、文学作品の読み方としては、──「ユリア」を、作者の同性の恋人として読むことは、十分に根拠のあることだと思うのです。

ちなみに、「ユリア」という呼び名の由来ですが──これこそ推測するほかはないのですが──ローマ皇帝の“背教者ユリアヌス”が考えられるかもしれません。あるいは、嘉内と賢治が“銀河の下の誓い”を結んだ1917年7月(ユリウス月)に因んでいるかもしれません。

「ペムペル」は、ネコヤナギの方言“ベンベロ”から来ているようですが、4人の中で年下で、学年も下だった河本義行にふさわしいと思います。

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