ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.9.5
「賢治には、自分の地獄を見出だすと、眼をそらすどころかいよいよ切り開き、さらしていく、ほとんど嗜虐的な性向があった。それが自分を滅ぼすことにつながるとしても、とめどなくのめりこみ、ついには永遠の暗黒に落下さえしはじめる。」(同書,p.156)
「嗜虐性はおそらくあった。しかしそれだけでも足りない。〔…〕人間への告発とか動物への同情、あるいは宗教的信念を説き終わった後に、なお作品の底には何かがある、と私は思う。何か──それはつづまり果てしのない闇である。」(同書,p.159)
「限りない暗黒に落下する途次、不意に静止して、暗黒を透き徹らせながら書いたのだといってはどうだろうか。」(a.a.O.)
↑最後の2つの引用(p.159)は、童話『フランドン農学校の豚』について述べています。
「底無しの闇に突き進むように、ただただ作品を生成発展させていく。」「自分の地獄を見出だすと、眼をそらすどころかいよいよ切り開き、さらしていく」──作者に働いたこのような、ほとんど意識以前の衝動を、
「願ひによって堕ち」
と言っているのだとしたら、どうでしょうか?
そして、
「人人と一諸に飛騰しますから。」
とは、どういうことでしょうか?‥「人人」とは、私たちのことなのでしょうか?!‥
宮澤賢治の作品に、佐藤氏が指摘されるような「闇」があること、‥それが諸作品を通底して存在することは、深読みした誰しも認めざるを得ないでしょう。
それは、もっとも解明しにくい部分ですし、これまで正面切って扱われたことは、少ないのかもしれません‥、しかし、それがどうやら“賢治文学”の、ある意味で本質であり“核”であることも、動かしがたいようです。
その一方で‥、“宮沢賢治”を持ち出せば何でも売れる‥、地元ではまたとない観光資源‥、東北本線は銀河鉄道に衣替え、ローカル線にはエスペラントの駅名がつくし、レストラン山猫軒は注文が多すぎて追いつかない……という“宮沢賢治現象”があります。
この両極端を、いったいどう繋いで理解できるのやら?!‥
しかし、ギトンは、そのどちらも“宮沢賢治”なのだと思っています。どちらかを否定するのは間違っている。。。
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