ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.8.9


しかし、ここで、「マグノリアの木」、つまりホオノキから天に飛び立つ「銀の鳩」、ホオノキに天から降りて来る「天の鳩」は、鳥が人界との間を往来するという日本の古い(仏教以前の)他界観に基いていると思われます:画像ファイル:鳥信仰

「サンタ、マグノリア」「セント マグノリア」──(聖ホオノキ)という呼びかけは、キリスト教のようです。

つまり、「寂静印」と言っても、仏教の“さとり”のモチーフを借りてきただけで、この童話の世界は、仏教でもキリスト教でも神道でもなく、賢治独自の聖域なのだと思います。

そこには、‘羅と瓔珞’だけを身につけた裸身の子どもたちがいるのです。

次に、『学者アラムハラドの見た着物』も、ミーラン関連の作品と見ることができます。ミーランの天使は出て来ませんが、ミーランでスタインの発見したもうひとつの壁画(橘瑞超が誤って崩壊させたもの)に描かれていた“ヴィシュヴァンタラ王子の白象布施”の説話が出て来るからです☆:学者アラムハラドの見た着物

☆(注) 金子民雄『宮沢賢治と西域幻想』,1988,白水社,pp.80-81.

この仏教説話は、アラムハラドが生徒たちに語って聞かせる筋になっています。

しかし、それ以外にも、この童話には、「小岩井農場」とのつながりを感じさせる部分が、いくつかあります:

「これらの鳥のたくさん啼いてゐる林の中へ行けばまるで雨が降ってゐるやうだ。」

↑これは、「パート3」の“鳥の声のシャワー”に対応します:

13どうしたのだこの鳥の聲は
14なんといふたくさんの鳥だ
15鳥の小學校にきたやうだ
16雨のやうだし湧いてるやうだ
   〔…〕





次に、

「ところがアラムハラドの斯う云ってしまふかしまはないうちにもう林がぱちぱち鳴りはじめました。それも手をひろげ顔をそらに向けてほんたうにそれが雨かどうか見やうとしても雨のつぶは見えませんでした。
 ただ林の濶[ひろ]い木の葉がぱちぱち鳴ってゐる
〔以下原稿数枚?なし〕

↑これは、「パート6」の《折返し点》で雨が降り始める場面と、描写がよく似ています:

「かれ草だ。何かパチパチ云ってゐる。
 降って来たな。降って来た。
 しかし雨の粒は見えない。
 そらがぎんぎんするだけだ。
 顔へも少しも落ちて来ない。
 それでもパチパチ鳴ってゐる。
 草がからだを曲げてゐる。
 雨だ。たしかだ。やっぱりさうだ。」
【清書後手入れ稿】

『学者アラムハラドの見た着物』は、この後の部分の原稿が散逸してしまっているので、分からないのですが、

雨が降り出すのは、やはり何か重要なことが起こる前兆に思えます。

ところで、この童話の最初で、作者は次のように予告しているので:

「このおはなしは結局学者のアラムハラドがある日自分の塾でまたある日山の雨の中でちらっと感じた不思議な着物についてであります。」

私たちは、ここから、失われた部分に書かれてあったことを、想像することができます。

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