ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.8.6


金子民雄氏は、『宮沢賢治と西域幻想』の中で:

「賢治はよい意味で、漢文の強い影響圏外に身を置くことができた。そして自分の住んだ東北の山野を西域とダブらせ、思いきって空想の翼をのばした。それが、現在も多くの読者を魅了させる作品を生む原動力となったのだ、といえよう。〔…〕」
(p.35.)

「怪奇趣味になってしまった『西遊記』などにかえって毒されなかったことが、幸いだったと思える。
 もっとも賢治は、『西遊記』など、まったくのぞいたこともなかったのかもしれない。なぜなら賢治は天山山脈についてふれながら、〔…〕名高い崑崙山脈について、ただの一度もふれたことがないのだから。」
(p.45.)

と考察しておられます。しかし、賢治は、たしかに『西遊記』を読んでいるのです。読んでいなければ、「黄水晶の浄瓶」などという語をさりげなく出せるとは思えません。

金角の吸い込まれた“紅葫蘆(べにひさご)”は有名ですが、“琥珀の浄瓶”のほうは影が薄くて、知らない人のほうが多いと思うからです。

賢治は、あえて人の知らない小道具をチラッと見せて、しかも、“琥珀”では明からさまなので「黄水晶」に変えておく──じつに心憎いではありませんか…

宮澤賢治は、中国古典も読んでいたし、漢文の素養も人並み以上にあったと、ギトンは思っています。ときどき、どうしてこんな漢語を知っているのだろうと思うことがあります。

しかし、彼の強靭な想像力は、‘古典の深淵’には決して呑み込まれることがなかったのだと思います。それは金子氏の指摘されるとおりだと思うのです。

. 〔みあげた〕

「おれは今日は霜の羅を織る。鋼玉の瓔珞をつらねる。黄水晶の浄瓶を刻まう。ガラスの沓をやるぞ。」








さて、「ガラスの沓(くつ)」ですが、

ガラスの靴を履いた子供といえば…《風の又三郎》ですね:

「空が旗のやうにぱたぱた光って飜へり、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はたうたう草の中に倒れてねむってしまひました。

 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。

 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまって空を見あげてゐるのです。いつかいつもの鼠いろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。」

(『風の又三郎』「九月四日、日曜」)

このように、登場人物の小学生たちの幻想の中に登場する《又三郎》は、たしかに「ガラスの靴」を履いています。

しかし、又三郎のガラスの靴は、もともとは天使の持ち物だったわけです。

1922年の〔みあげた〕で、《有翼天使》のための羅(うすぎぬ)や瓔珞とともに現れたのが、おそらく、“ガラスの靴”が登場した最初なのだと思います★◇

★(注) 先駆形『風野又三郎』の最初の清書稿(の一部)は《10/20(印)イーグル印》に書かれているので、〔みあげた〕とほぼ同じころ、1922年中の成立かと思われるのですが、残念ながら散逸が多いために、又三郎が、1922年の清書稿でもガラスの靴を履いていたかどうかは、確認できません。『風野又三郎』の現存草稿(1924年以降の《B型10/20イーグル印》原稿用紙)には、〔みあげた〕と同じ「沓」の字で、「ガラスの沓」と書かれています。

◇(注) 又三郎の「ガラスのマント」も、「天の子供ら」の「羅(うすぎぬ)」が原型なのかもしれません。

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