ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.8.3


それでも、《有翼天子像》は、なんとか持ち帰れたのですが、他の壁画:“ヴィシュヴァンタラ王子の白象布施図”☆などは、完全に破壊されており、現在ではスタインの撮った写真しか残っていません★:ミーラン壁画の様式史的研究(pdf)

☆(注) 仏教経典のジャータカに属する一説話。ジャータカとは、釈迦や弟子たちの前世に関する説話。ヴィシュヴァンタラ王子(ヴェッサンタラ王子、スダーナ太子とも云う)は幼いときから、人々のために施しをしたいと念願していた。16歳で王位を譲り受けると、布施院を建てて貧しい人々を養い、毎日国宝の白象に乗って布施院を訪れていた。ある時、他の国の王がひそかに派遣したバラモンがやって来て、国宝の白象をくださいと頼むと、王子は簡単にやってしまったので、国は飢饉になり、国民は大騒ぎになった。王子は意に介せず、人から乞われるまま次々に何でも施してしまい、最後は妻子をも施してしまった、という話。

★(注) 金子民雄『宮沢賢治と西域幻想』,1988,白水社,pp.80-81. 現在では、ミーランの寺址には壁画はほとんど残っていませんが、そのすべてが橘瑞超によって破壊されたのか、現場の砂漠気候のために急速に崩壊してしまったのかは不明です。

スタインは、写真撮影をするだけでも、砂漠の砂嵐が鎮まるまで、辛抱強く2日間待って撮影しているのです。

考古学の専門家でもないのに、稚拙なやりかたで遺跡に手をつけて破壊してしまった橘の行為に対しては、スタインも強く非難していますが、自己中心的な宗教的情熱というものが、どんな結果をもたらすかの良い例ではないかと思います。

「パート5/6」でクチャ(亀茲)の“舎利容器”について説明したのを覚えているでしょうか?:画像ファイル:クチャの舎利容器 3.6.20「パート5」

ミーラン(Milan)は、クチャ(亀茲)とは、タクラマカン砂漠(タリム盆地)の‘対岸’にあたりますが、その《有翼天使像》は、フレスコ画です:画像ファイル・ミーランの有翼天子像

こちらの‘天使’は裸体ではありませんが、あざやかな赤い羅(うすぎぬ)を纏っており、肌は薄いピンクで描かれ、やはり東洋にはない色彩です。ギリシャのエロス像◇に淵源して、エジプト、ユダヤ、ガンダーラへと広がって行った有翼天使像のモチーフが及んでいると云われます。

◇(注) 古典ギリシャ時代には、↓「〔みあげた〕」ファイルの上部にある画像のような裸体青年像でした。時代が下るにしたがって、少年の天使像になり、近代西洋では幼児の姿のキューピッドやエンゼルになって行きます。





宮澤賢治が、

. 〔みあげた〕

「壁はとうにとうにくづれた。砂はちらばった。」

と書いているのは、ミーランの壁画の破壊を、スタインの著書で読んだか、東京国博で《有翼天使像》の残骸を見て、構想したのだと思います。

「私の壁の子供ら」は、ミーランの3人の有翼天使像をモデルにしていることは、間違えないと思います。
賢治は、壁画が破壊されたことを知って、たいへんに心を痛めたのだと思います◆

この断片の前後のストーリは分かりませんが、破壊された壁画の場所へ行った「私」が、絵画は破壊されたけれども、天から魂を得て生きている有翼天使たちに出会う話のようにも思われます。

◆(注) 賢治の創作したストーリーは、3体の天使像がすべて破壊されたという内容のようです。事実は、1体がかなり損傷しただけでした。完全に破壊されたのは、“太子布施白象図”のほうです。

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