ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.8.2


. 〔みあげた〕
「私の青白い火」は、暗い洞窟か廃屋の中を探検している灯火なのでしょうか。

あるいは、「青白い火」は、作者の胸の中にともった火なのでしょうか。
詩集『春と修羅』では、もう何度も出て来ましたが、「青い」「青白い」は、抑えられた性的情熱を表現している場合があります。

「壁」があるから建物の中かと思うと、陽炎(かげろう)が昇ったり、「空から小さな小さな光の渦が」降って来たり、明るい戸外のようでもあります。





「あの壁のあの子供ら」とありますが、この場所は、《ミーランの有翼天使像》が発見された西域ミーランの寺院遺跡だと思います。遺跡ならば、天井がなくて空が見えていても、おかしくありません。

《ミーランの有翼天使像》は、1907年に西域探検家オーレル・スタイン☆のイギリス調査隊によって発掘されました:地図:ミーラン 西域地図

スタインは、楼蘭から幻の“ロプ・ノール”湖★の涸床をたどってミーランに達し、砂に埋もれた古代寺院遺跡の内壁に、さまざまな絵画が描かれているのを発見しました。

☆(注) Sir Aurel Stein イギリスに帰化したハンガリーの考古学者。

★(注) “ロプ・ノール”は、タリム盆地東辺、桜蘭の南にあった湖。原因・周期は不明だが、巨大な湖が干上がって消えたり、満々と水をたたえて出現したりした。最近では、1959年までは湖があったが、1962年ころ消滅し、現在も干上がっている:ロプ・ノール(wiki)

しかし、壁の漆喰はぼろぼろになっていて、無理にはがすと崩壊してしまう状態だったので、再訪を期して写真撮影にとどめたのです。ところが:

「わたしの発見が報ぜられた数年後、考古学への情熱に見合うだけの準備も、専門的技術も経験もない若い日本の旅行者がやって来て、拙劣な方法でフレスコ画をはぎとろうとしたのだ。その企てが、ただ破損をまねくばかりであるのは当然だった。南の半円の部分にある通廊の床に、壁画の描かれていた漆喰がこなごなに砕けて散っているのを見ても、遺憾ながらそれは歴然としていた」

(スタイン『中央アジア踏査記』)

「若い日本の旅行者」とは、西本願寺・大谷探検隊(第3次)◇の橘瑞超で、1911年に、スタインの発見を伝え聞いてミーランを訪れ、壁画の剥ぎ取りを試みたがうまくいかず、多くの壁画を壊してしまったようです。

◇(注) 浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞が、中央アジアに派遣した学術探検隊。第1次(1902-04年)から第3次(1910-14年)まで行われ、多数の仏教史関係文書や遺物を持ち帰った。

《有翼天子像》は、このミーラン壁画の一部で、もともと3体あったうち、橘瑞超が持ち帰った1体は、現在、東京国立博物館にありますが、大部分が破損した残骸の状態で、顔と翼の一部しか残っていません。

スタインが切り取った2体は、インドのデリー国立博物館にありますが、ほぼ完全なものが保存されています:画像ファイル・ミーランの有翼天子像

どうやら、スタインの非難は事実であったようです。大谷探検隊は、僧侶からなる探検隊で、考古学の専門家は参加しておらず、発掘に必要な機材も持参していませんでした。

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