ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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【30】 〔みあげた〕





3.8.1


. 〔みあげた〕
「〔みあげた〕断片」(『新校本全集』第9巻「童話[U]」本文篇,p.103)は、前後が散逸した散文の断片ですが、『小岩井農場』【下書稿】と同じ用紙を使って書かれている点で注目されます。

作者の死後に、前後の散逸した原稿用紙(10行詰め)1枚だけが発見されました。この1枚以外の草稿は、すべて失われています。

「みあげた。」で始まる最初の行も、文の途中からであることが明らかです。

この1枚分の内容だけでは、童話の一部なのか、それともエッセイないし手記のようなものなのかも、はっきりしません。

断片全部が、(作者か?登場人物か?の)独白の一部であり、このような独白を持つ散文作品は、宮沢賢治には珍しいと思います。

用紙は、《10/20(印)イーグル印》。『小岩井農場』【下書稿】のうち、「パート4」末尾と「パート7」中途の計2枚を除くすべてが、この原稿用紙に書かれています。

この用紙は、『冬のスケッチ』に用いられていることや筆跡などから、1921年後半から1922年末または1923年初めまで用いられていたと推定されます。

《10/20(印)イーグル印》に書かれた他の作品には、「風野又三郎[最初期稿の一部]」「三人兄弟の医者と北守将軍〔散文形〕」「猫の事務所〔初期形〕」「毒蛾」「フランドン農学校の豚〔初期形〕[一部]」があります(『新校本全集』第16巻(上)「草稿通観篇」参照)

「みあげた。そしてもう私の青白い火は燃え尽きてゐた。けれどもおれはあの壁のあの子供らに天から魂の下ったことを疑はなかった。私の壁の子供らよ。出て来い。おゝ天の子供らよ。

 何といふせわしいかげらふの足なみだ。

 そして空から小さな小さな光の渦が雨よりしげく降って来る。

 しづかにたゝえ褐色のゆめをくゆらす砂、あの壁の一かけを見せて呉れ。

 おゝ天の子供らよ。私の壁の子供らよ。

 出て来い。

 おれは今日は霜の羅を織る。鋼玉の瓔珞をつらねる。黄水晶の浄瓶を刻まう。ガラスの沓をやるぞ。

 おゝ天の子供らよ。私の壁の子供らよ。

 出て来い。

 壁はとうにとうにくづれた。砂はちらばった。そしてお前らはそれからどこに行ったのだ。いまどこに居るのだ。」

これが散文だとされているのも、最初の段落の形からだと思います。

しかし、第2段落以下は、韻文(口語詩)だと言っても成り立つのではないでしょうか?

幾つかの文からなる長い行が、行分けされずに残されている例は、「小岩井農場」【清書後手入れ稿】にもありました(“吼えるベートーヴェン”のところ)。

まだ、詩になるのか散文になるのか定まらない、未分化な状態にも見えます。

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