ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.2.9


しかし、それは‥冬が春になったのですから、考えてみれば、当たり前のことです:




. 春と修羅・初版本

91みんなすつかり變つてゐる
92變つたとはいへそれは雪が往き
93雲が展(ひら)けてつちが呼吸し
94幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ
95あをじろい春になつただけだ

「‥なっただけだ」と言っていますが、作者は、この冬から春への変化を軽視しているわけではありません☆。むしろ、この季節の移り行きにも深く感動していることは、

「雪が往き/雲が展けて土が呼吸し」

という対句的な表現や、

樹木の幹から梢に「燐光や樹液がながれ」るという表現に現れています。

☆(注) 「あをじろい春になつただけだ/それよりも…」と、比較表現が使われています。賢治の心象スケッチでの比較表現は、一種の修辞であることが多く、額面どおりの《A<B》とは受け取らないほうがよいと思います。むしろ、実質的な意味は、《AのみならずB》、《Aが地で、Bが図》→AがBを浮き出させる関係だと思うのです。冬から春への・沸き立つような季節の移り行き(A)という《地》が、小岩井農場の「野はらや牧塲の標本」が「確かに繼起する」(B)という《図》を引き立てています。

「燐光」と「蛍光」は、特殊な物質が、光や紫外線、X線を受けて、自分でも発光する現象ですが、「燐光」の場合には、紫外線などの照射をやめても、しばらく発光が続きます。しかし、見た目は「燐光」も「蛍光」も、違いはありません:画像ファイル・蛍光 画像ファイル・燐光

ところで、賢治が「燐光」の語を使う場合には、「蛍光」とは違うイメージを抱いていたように思われるのです。
「燐光」の場合には、なにか、生命の輝き、あるいは、生命のともしびのようなものが感じられるのですが‥:

「おん舎利ゆゑにあをじろく
 燐光をはなちたまふ。」
(『冬のスケッチ』,14葉,§2 奉膳)

「赤い蠕蟲(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は
 燐光珊瑚の環節に」
(「蠕蟲舞手」)

94幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ
(小岩井農場・パート1)

したがって、95行目の「あをじろい春」という語も、病的なイメージではなく、
むしろ、薄緑の新芽に被われた樹林のような、若々しい生命力が迸るイメージなのではないでしょうか?

_96それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね
_97すみやかなすみやかな萬法流轉(ばんぽうるてん)のなかに
_98小岩井のきれいな野はらや牧塲の標本が
_99いかにも確かに繼起するといふことが
100どんなに新鮮な奇蹟だらう

しかし、こうした季節の急激な移り行き──「すみやかな万法流転」──を背景として、
「小岩井のきれいな野はらや牧塲の標本が/いかにも確かに繼起する」ことが、ここでの《図》であり、テーマです。
それにたいして、「どんなに新鮮な奇蹟だらう」と最大級の讃辞を送っています。

「心象の明滅」は、風景のめまぐるしい変化であると同時に、個人としての一貫性を虚構にしてしまうほどの、思想・感情のたえまない変転でもあります。

「すみやかな萬法流轉」も、結局はすべてが変転し流れてしまって、何ものも、あてになりません。

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