ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.7.32
ところで、今度は少し別の観点から検討してみたいと思います。
「パート5」「パート6」の標題が表示されているのは、
省略したけれども、本文はあるんですよ、と示していることになります。
いずれ読者から要望があれば、「パート5」「パート6」も発表してもいいなあ‥←‥などと、賢治は思っていたかもしれませんねw
これと違って、「パート8」の場合には、本文が無いから、標題も表示しないのではないでしょうか?
「パート8」を読みたいなどと言われたら困るからなあ‥← ……てわけですw
「パート8」は、少なくとも、【下書稿】【清書稿】のような・原稿用紙に詩本文として書かれた形には、なっていなかったのだと思います‥
断片的なメモはあったとしても。
そこで‥
もし、その「パート8」になるべき時間の経過‥ないし区間について、断片的なメモが、少しでもあったとしたら
そのメモは、どうなってしまったのでしょうか? ‥読者としては、そんなことが気になってしまいますw
断片的なメモは、そのまま処分されてしまったのか?
いや、むしろ、想像される賢治のふつうの創作経過から言えば、ほかの作品に流れ込んだと考えてよさそうです。
‥そうすると、そもそも、「パート8」の部分は、「小岩井農場」の一部として、あるいはその【下書稿】【清書稿】の一部の形で残っていないということは、
他の作品なり、その習作が書かれたのではないか?‥
ということが考えられるわけです。
そこで、思いつくのは‥:
宮沢賢治の場合に多いのですが、
推敲中の作品原稿の一部に鉛筆などで手を入れて改作して、他の作品の一部としてツギハギで転用してしまう──ということが、しばしばあります。
もとの原稿に訂正を記入したものが、そのまま、新しい作品の原稿の一部として残っている場合もありますが(その場合には、転用の証拠が残ります)、
新しい作品が、さらに別の用紙に清書されて、もとの下書きは破棄されてしまうと、転用の跡は消滅します。
この・あとのほうの場合だったとすると、「パート8」の草稿は、いくら探しても見つからないことになります。
もちろん、これは憶測の域を出ないかもしれません。
賢治の生前には「パート8」の草稿なり断片なり存在して、それが散逸したり戦災で焼けたりして、今日まで伝わっていない、ということも考えられるからです。
【C説】w 「パート8」は、他の作品として独立したので、草稿も断片も残っていない。草稿が無いから、作者も【初版本】に標題を表示しなかったのだ──
と言えれば、スッキリして分かりやすいですが、そう断定できる根拠は、残念ながら、どこにもないと言わなければなりません。
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