ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
148ページ/184ページ


3.7.32


ところで、今度は少し別の観点から検討してみたいと思います。

「パート5」「パート6」の標題が表示されているのは、

省略したけれども、本文はあるんですよ、と示していることになります。

いずれ読者から要望があれば、「パート5」「パート6」も発表してもいいなあ‥←‥などと、賢治は思っていたかもしれませんねw

これと違って、「パート8」の場合には、本文が無いから、標題も表示しないのではないでしょうか?

「パート8」を読みたいなどと言われたら困るからなあ‥← ……てわけですw

「パート8」は、少なくとも、【下書稿】【清書稿】のような・原稿用紙に詩本文として書かれた形には、なっていなかったのだと思います‥
断片的なメモはあったとしても。

そこで‥

もし、その「パート8」になるべき時間の経過‥ないし区間について、断片的なメモが、少しでもあったとしたら

そのメモは、どうなってしまったのでしょうか? ‥読者としては、そんなことが気になってしまいますw

断片的なメモは、そのまま処分されてしまったのか?

いや、むしろ、想像される賢治のふつうの創作経過から言えば、ほかの作品に流れ込んだと考えてよさそうです。

‥そうすると、そもそも、「パート8」の部分は、「小岩井農場」の一部として、あるいはその【下書稿】【清書稿】の一部の形で残っていないということは、

他の作品なり、その習作が書かれたのではないか?‥

ということが考えられるわけです。

そこで、思いつくのは‥:

宮沢賢治の場合に多いのですが、

推敲中の作品原稿の一部に鉛筆などで手を入れて改作して、他の作品の一部としてツギハギで転用してしまう──ということが、しばしばあります。

もとの原稿に訂正を記入したものが、そのまま、新しい作品の原稿の一部として残っている場合もありますが(その場合には、転用の証拠が残ります)、

新しい作品が、さらに別の用紙に清書されて、もとの下書きは破棄されてしまうと、転用の跡は消滅します。

この・あとのほうの場合だったとすると、「パート8」の草稿は、いくら探しても見つからないことになります。

もちろん、これは憶測の域を出ないかもしれません。

賢治の生前には「パート8」の草稿なり断片なり存在して、それが散逸したり戦災で焼けたりして、今日まで伝わっていない、ということも考えられるからです。

【C説】w 「パート8」は、他の作品として独立したので、草稿も断片も残っていない。草稿が無いから、作者も【初版本】に標題を表示しなかったのだ──

と言えれば、スッキリして分かりやすいですが、そう断定できる根拠は、残念ながら、どこにもないと言わなければなりません。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ