ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.30


いったい、「パート8」は、どうなってしまったのか?跡形も無いように消されたのか?

それとも、単に番号が跳んでいるだけで、その間は、書かれなかったのか?

大きく分けると2つの説があると思います:

【A説】「パート8」は、いったん書かれたが、破棄されたという説。

【B説】「パート8」は、最初から全く書かれなかったという説。

【A説】は、例えば、天沢退二郎氏によれば:

「原稿もメモも残っていないパート八の内容はぼくらの推測外にある。しかし宮沢賢治がその方法の先天的欠陥のゆえに、異空間──いまさっきその辺境へたどりついた異次空間──へそれ以上踏みこむことができなかったこと、おそらくその失敗がパート八を削除させた原因であることはおよそ推測できる。」
(『「春と修羅』研究U』,p.69.)

つまり、「パート8」は、いちおう書かれたけれども、失敗だったので削除されたのだとされます。

なお、天沢氏は、‘失敗’した「パート8」に続く「パート9」に対しても、評価が低く、「パート7」を頂点として、“歩行詩作”ないし“心象スケッチ”という宮沢賢治の「方法」は限界に達したと見ておられるようです。

しかし、天沢氏の説明では、同様に、書かれたけれども失敗だった「パート5」「パート6」と、違う処理をしている理由が、分かりません。つまり、「パート8」のほうは、章題も表示されていない理由が、分からないのです。
細かいことかもしれませんが。。。

【B説】は、岡澤敏男氏が『賢治歩行詩考』(pp.123-127.)で述べておられる見解です。引用しますと(〔 〕はギトン注):

「〈パート八〉は幻の章です。この章にあたる原稿が、詩集原稿
〔印刷用原稿〕にも、二種類の先駆稿(〈下書稿〉〈清書後手入稿〉)にも欠落しているのです。〔…〕

 〈パート八〉にあたる下書稿が現存していないことをみれば、〈パート八〉はなにかの理由で執筆されなかったとみられます。その『なにかの理由』〔…〕

 賢治は、小岩井農場を北上して狼森の向い側にある松林に着いたとき、雨が降り出したので小岩井駅に引返すことになり、汽車時間をきくために長者館二号畑に立ち寄ったのでした。〔…〕

ところが〔…〕いきなり〈パート九〉に飛んで、〈すきとほつてゆれてゐるのは/さつきの剽悍な四本のさくら〉から始まるのです。
「さつきの…四本の桜」とは、〈パート四〉の〈向ふの青草の高みに四五本乱れて/なんといふ気まぐれなさくら〉のことに違いありません。この場所
小岩井農場略図(1) “四ツ森”の奥の「へ3」林区〕は長者館二号から歩いてざっと四km(一里)ほどの距離です。この四キロの行程は、〈パート八〉となるべき区間だったのです。」

☆(注) 1/25000地形図(現在の)で測ってみると2km弱です。つまり、歩いても30分かからない距離です。

そこで問題は、〈パート八〉が書かれるはずだった・この幻の区間を、賢治は、どうやって戻ったのかだと、岡澤氏は云います。〈パート七〉の記述に手がかりを探してみると:

岡澤氏が注目するのは、「はたけに置かれた二台のくるま」★(⇒:写真 (ソ))です。これは、

「燕麦や過燐酸石灰肥料・農具といっしょに、農作業員たちを乗せて長者館二号の現場に運んできた二頭曳の馬車でした。〔…〕遠くの圃場には馬車が作業員を現場に運びました。〔…〕雨で〔…〕作業は中止され作業員たちは馬車で耕耘部に帰ることになったのです。賢治は焚火を囲みながら農夫や娘たちと親密になっていたし、農夫たちは賢治が三時の汽車に急いでいることも知っていたので、賢治を馬車に便乗させたものでしょう
。〔…〕賢治はこの四キロの区間を徒歩でなく馬車で移動したのです。」

馬車で移動した区間は、“歩行詩作”ができないので、手帳にスケッチメモが残らなかった。したがって下書稿も書かれなかったのだ、ということになります。

★(注) さきほど、ギトンは、これを「厩肥車」(スプレッダー)と同じだと考えました。【清書稿】の「二台のくるま」を【初版本】で「厩肥車」に直している箇所(52行目)があるからです。しかし、岡澤氏は、スプレッダーとは別に、馬を外された2台の馬車が置かれていると読んでおられるのです。スプレッダーは、トウモロコシの播種(5月21日)に使われたもので、過燐酸石灰施肥・エンバク播種が行なわれた5月7日には無かったはずですから、岡澤氏の読みのほうが正確かもしれません。

◆(注) ここは、事実関係としては疑問があります。過燐酸石灰施肥・エンバク播種が行なわれた5月7日、つまり岡澤氏によれば馬車が圃場に置いてあった日は、曇りで、雨は降らなかったはずです(3.7.17 本部日誌)。つまり、雨で作業が中止されたという推定は、5月7日については成立しないのです。

「〈パート五〉〈パート六〉の章題を残したのは、歩行記録の所在を暗示する意味だったと思われます。」

これに対して、「パート八」は、そもそも歩行記録が存在しないので、章題も表示されていないのだ、というわけです。
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