ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.27


賢治は、漢字で《狼森》と書いて、「おいのもり」と読ませていますが、実はそのほうが、国土地理院の地図よりも正確なのです。

《狼ノ森》(おいのもり)の「おいの」は、“オオカミの”という意味ではありません。オオカミ(やまいぬ)のことを、古くは「おいぬ(御犬)」または「おいの」と言ったのです。
おそらく、ただの犬ではなく、神様の使いだから「御」を付けたのでしょう。
ですから、「の」は助詞ではないのです。

「オオカミの呼称としては東北地方の『オイヌ』がある。これはおそらく『御犬』であり、普通の犬ではないという敬意を含むものであったと思われる。字としては狼があてられ、例えば狼久保(おいぬくぼ)(岩手県滝沢村)、狼河原(おいぬがわら)(宮城県登米郡東和町)などの地名に残っている。東北地方は自然が豊かに残っていたからオオカミが広範に生息していたものと考えられる。」

. 動く大地とその生物(東京大学)

オオカミといっても、アフリカやアメリカのオオカミとは別の種でして、日本に昔からいるニホンオオカミ、別名“やまいぬ”と言います:. 画像ファイル:ニホンオオカミ

. 狼森と笊森、盗森 狼森と笊森、盗森(携帯)

「小岩井農場の北に、黒い松の森が四つあります。いちばん南が狼森(オイノもり)で、その次が笊森(ざるもり)、次は黒坂森、北のはづれは盗森(ぬすともり)です。」

岩手山麓の火山灰台地に草や木が生えて、“四つの森”ができるまでの経緯が、まず語られます:

「噴火がやつとしづまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南の方からだんだん生えて、たうとうそこらいつぱいになり、それから柏や松も生え出し、しまひに、いまの四つの森ができました。けれども森にはまだ名前もなく、めいめい勝手に、おれはおれだと思つてゐるだけでした。」

つまり、人間が名前をつけるよりも前から、自然物には自然物の“自意識”があって、「めいめい勝手に、おれはおれだと思つてゐる」──いわば‘ことば以前’の幼児のようなまどろみの状態があったと云うのです。

そういう‘ことば以前’の原意識的な原世界を想定するのは、中原中也、あるいは遠く、フッサールの現象学にも通じることだと思います。

中也が指摘するように、それが宮沢賢治の世界観の特徴なのかもしれません。

「するとある年の秋、水のやうにつめたいすきとほる風が、柏の枯れ葉をさらさら鳴らし、岩手山の銀の冠には、雲の影がくつきり黒くうつゝてゐる日でした。

 四人の、けらを着た百姓たちが、山刀(なた)や三本鍬(さんぼんぐは)や唐鍬(たうぐは)や、すべて山と野原の武器を堅くからだにしばりつけて、東の稜(かど)ばつた燧石(ひうちいし)の山を越えて、のつしのつしと、この森にかこまれた小さな野原にやつて来ました。よくみるとみんな大きな刀もさしてゐたのです。」

. 画像ファイル:三本鍬、唐鍬、燧掘山 写真 (レ)
「東の稜ばつた燧石の山」というのは、小岩井農場のちょっと東にある“燧掘山(かどほりやま)☆(467m)のことでしょう。

☆(注) 地元の方のブログには、「かどほりやま」と読んでいる方と、「かとほりやま」と読んでいる方がありました。

こうして人間がやってきて、最初の開拓が始まりますが、1年目の秋に、年少の子ども4人が、突然姿を消してしまいます。

「そこでみんなは、てんでにすきな方へ向いて、一緒に叫びました。
『たれか童(わらし)やど知らないか。』
『しらない。」と森は一斉にこたへました。

『そんだらさがしに行くぞお。』とみんなはまた叫びました。
『来お。』と森は一斉にこたへました。
 〔……〕
 森へ入りますと、すぐしめつたつめたい風と朽葉の匂とが、すつとみんなを襲ひました。」

開拓民たちが「狼ノ森」の中へ入って行くと、人のいない森の中で焚き火があかあかと燃えていました:

「すきとほつたばら色の火がどん\/燃えてゐて、狼(オイノ)が九疋(くひき)、くる\/\/、火のまはりを踊つてかけ歩いてゐるのでした。」

しかも、火のそばには居なくなった4人の子どもがいて、焼いた初茸や栗を食べていました。
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