ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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ジョン=マカラン・スワン「オルフェウス」

3.7.23


「ところが、冥界の出口まで来たとき、オルフェウスは、思わず後ろを振り返って見てしまう。すると、エウリディケーは、見る見る朽ち果てた姿となって、冥界の中に吸い込まれて行ってしまう。

 人界に戻ったオルフェウスは、失意のうちに、ディオニュソスの狂乱儀式(オルギー)に供され、魔女たちによって八つ裂きにされ、ばらばらになったオルフェウスの身体と竪琴は、川に投げ込まれてしまう。

 しかし、記憶の女神ムーサは、オルフェウスの身体を拾い集め、貼り合せて葬ってやり、天神ゼウスは、オルフェウスの竪琴を天に投げ上げて琴座の星とした。」

宮沢賢治の作品には、直接、“オルフェウスの冥界下り”伝説に基いたものは見られませんが、賢治は、この伝説に関心を持っていたと思います。

というのは、『銀河鉄道の夜』には、琴座が何度も登場するからです。

まず、ジョバンニが、《天気輪の丘》から昇天して行く場面に、「琴の星」が現れます。「五、天気輪の柱」の最後のところです:

「あああの白いそらの帯がみんな星[だ]といふぞ

 ところがいくら見ていても、そのそらは〔…〕見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうたう蕈[きのこ]のやうに長く延びるのを見ました。またすぐ眼の下のまちまでがやっぱりぼんやりしたたくさんの星の集りか一つの大きなけむりかのやうに見えるやうに思ひました。」
(『銀河鉄道の夜』【最終形】)

初期形では、銀河の旅の中でも、列車が《琴(ライラ)の宿》のそばを過ぎて行く場面があります。《琴(ライラ)の宿》★は、琴座と思われます:

「『あの森琴(ライラ)の宿でせう。あたしきっとあの森の中に立派なお姫さまが立って竪琴を鳴らしてゐらっしゃると思ふわ。お附きの腰元や何かが青い孔雀の羽でうしろからあをいであげてゐるわ。』

 カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。

 それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一その小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってゐるのはきっとその孔雀のはねの反射だらうかと思ひました。けれどもカムパネルラがやはりそっちをうっとり見ているの[に]気がつきましたらジョバンニは何とも云へずかなしい気がして思はず『カムパネルラ、こゝからはねおりて遊んで行かうよ。』と云はうとしたくらゐでした。」
(『銀河鉄道の夜』【初期形1】)

★(注) 「ライラ」は、琴座のラテン語名 lyra の英語読み。「宿」は、中国では星座を「星宿」と言うのによる。草下英明『宮澤賢治と星』,1975,学藝書林,p.66.

そして、最後に、ブルカニロ博士と別れて家に帰って行く場面でも、空に「琴の星」が現れます:

琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。」

(『銀河鉄道の夜』【初期形1】)

女の子が言っている《ライラの宿》の「お姫さま」は、(女性になっていますが)オルフェウスを指しています。

「琴の星」の奇妙な動きが、ジョバンニの昇天と、地上への帰還の際に現れているのは、上で考えた《オルフェウス伝説》の意味からみると、非常に象徴的です。

ジョバンニの銀河の旅は、自我の深層──深ければ深いほど無意識であり、ユングによれば、個人を越えて、民族、人類に共通する原意識・原記憶なのです──への旅にほかならなかったのではないでしょうか。

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