ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.16


【下書稿】での、作者の構想では、小岩井農場を‘天上’として称賛し、いわば‘歩行詩作’による“農場讃歌”を謳い上げようとしていたのではないでしょうか。

しかし、作者は、再考・推敲の過程で構想を変え、

‘天上への飛翔’とは対極にある‘自我の深みへの下降’の重要さを、認識したのではないかと思うのです。。

しかし、いまここでこの考察を展開するのは、まだ早いかもしれません。

とりあえずは、「パート7」のテキストを先へ進めたいと思います。

. 春と修羅・初版本

83(三時の次あ何時だべす)
84(五時だべが ゆぐ知らない)
85過燐酸石灰のヅツク袋
86水溶十九と書いてある
87學校のは十五%だ
88雨はふるしわたくしの黄いろな仕事着もぬれる

 



「ヅツク袋」:“ズック”は、木綿または麻の太い撚糸を密に織った粗手の布。丈夫で耐水性があるので、帆布,テント,布靴,カバンなどにされます:画像ファイル・ズック袋

ここの“ズック袋”は、工場から化学肥料を出荷する包装のズタ袋です。

「水溶十九」は、堆肥と混合するさいに‘19%水溶液にして混合せよ’という農場の指示が書いてあるのでしょうか。花巻の農学校のレシピ(15%)よりも濃い過燐酸石灰水溶液を使っているわけです。

宮澤賢治は、盛岡高等農林2年の時に、関豊太郎教授の指導で、盛岡付近の地質調査を行ない、小岩井農場の表土が火山灰土であることを知りました。
得業論文(卒論)研究では、小岩井を含む雫石地方の土壌のリン酸含量は、花巻地方の約10分の1しかないことなどを調査しています☆

☆(注) 『賢治歩行詩考』,pp.105-106. ところで、宮澤賢治の『得業論文』、じっさいに読んでみますと、対策として石灰施用よりも焼土処理のほうが良いという結論になっているのです。他方、宮澤の『得業論文』提出の前後に、関豊太郎教授は、石灰施用を奨める講演会などを大々的にやっています‥??! 宮澤に『得業論文』の題を選定したのは関教授ですし、関教授は農芸化学科の主任なのですから、直接間接の指導が全く無かったとは考えられないのですが。。。。もしかすると、関教授は、自分の研究結果を発表する前に、わざと学生に逆方向の研究をさせてみて、自分の結果を検証したのではないか──見ようによっては、宮澤は‘捨て石’にされたわけですが、見ようによっては、関教授は意外に懐の深い人で、弟子たちに自由に研究をさせていた──とも考えられます。

農学校よりも濃い過燐酸石灰濃度にせよ、さきほどの「蒼鉛の労働」にせよ、“黒ボク”に被われた小岩井の土地条件の厳しさを示しているのです。

93 少しばかり青いつめくさの交つた
94 かれくさと雨の雫との上に
95 菩提樹皮の厚いけらをかぶつて
96 さつきの娘たちがねむつてゐる

「菩提樹皮[まだかわ]の…けら」は、シナ布(シナノキの樹皮繊維を織った布)で作った「けら」です:画像ファイル・けら 画像ファイル・シナ布

雨に濡れながら昼寝をするというのは、実際の情景としてはちょっと考えられませんが、116行目には:

「みんなはあかるい雨の中ですうすうねむる」

とも書いてあります。

どうも、この「雨」自体が作者のフィクションのように思われます。

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