ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.13


この土壌は、“黒ボク土”だと思います:画像ファイル・黒ボク

“黒ボク”は、日本の火山灰土に多い土壌ですが、黒くて軽く、乾くとさらさらぽくぽくしていて、しかもそういう‘くろつち’の層が非常に厚いのが特徴です。

一見すると畑の黒土(腐植土)に似ていますが、粘り気がありません。地味も非常に痩せていて、そのままではどんな作物も、全く育たないのです。

というのは、“黒ボク土”は、強い酸性土なので、土壌の酸性によって、火山灰に含まれているアルミニウムが溶け出し、アルミニウムの毒性が、植物の生育を阻害するのだそうです。

しかも、アルミニウムは、腐植(植物の死骸)と結合して、腐植が分解できないようにしてしまうために、植物に必要な養分(窒素、リン酸、カリ)が、腐植から溶け出て来ないのです。
とくにリン酸は、アルミニウムに吸着されてしまうので、よほど多量にリン酸肥料をやらない限り、植物はリン酸欠乏症になります。

また、土壌の酸性自体も、作物の生育を阻害します。

そこで、“黒ボク土”は、@石灰で酸性を中和し、Aリン酸肥料を入れて、作物が育つように改良しなければならないのです。

. 春と修羅・初版本

56 (こやし入れだのすか
57  堆肥ど過燐酸どすか)
58 (あんさうす)
59 (ずゐぶん氣持のいヽ處(どご)だもな)
60 (ふう)
61この人はわたくしとはなすのを
62なにか大へんはばかつ[て]ゐる

 


賢治が、農夫に肥料の種類を聞いているのは、小岩井農場が“黒ボク土”に、どのように対処しているのか、非常に関心があったからです。

「過燐酸」は、過燐酸石灰のことで、代表的なリン酸の化学肥料です。“黒ボク土”に欠乏するリン酸を供給するだけでなく、石灰のアルカリ性で、土壌の酸性を中和する働きがあります。
つまり、↑上の@Aを併せた働きがあるのです。

小岩井農場では、エンバクには、過燐酸石灰を直接入れるのではなく、堆肥に混合して施用していたことが、当時の作業日誌に出ているそうです。
スプレッダー2台分の混合作業は、骨の折れる労働だったろうと思います。

しかし、「ここはずいぶん気持ちのいい処ですね」と賢治が言っても(59行目)、
農夫は、まるで何かに“はばかり”(差しさわり)があるかのようで、はっきりとは答えないのです‥

“はばかる”には、自動詞と他動詞がありますが、ここでは他動詞の“はばかる”:遠慮する、気がねする、差し障りをおぼえてためらう、という意味です。

「ここはずいぶん気持ちのいい処ですね」などと、まるで風景を楽しんでいるような・のんきなことを言われて、‘今それどころじゃないよ’と思っているのでしょうか?

しかし、あるいはもしかすると、
ここで賢治は、おそろしく遠まわしな言い方で、老農夫の苦労をねぎらっているのではないでしょうか…。

もし、ふつうの言い方で、

“ずいぶんと精が出たもな”
“もう、へとへとじゃ”

などと言っているのを他の人に聞かれたら、この農夫が、怒られてしまうかもしれません。

そこで、「ずいぶん気持ちのいい場所ですよね?」と言えば、遠まわしに労をねぎらったことになる──それが老農夫にも通じたので、「ふう」と息を吐いて見せたのではないでしょうか?

もし、そうだとすると、賢治と老農夫の間の、この言外のコミュニケーションは、‘庶民の知恵’と言わなければならないでしょう‥

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