ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.5


ところが、その時、胸甲騎兵の波濤に、突然の恐慌が走った。

「胸甲騎兵の縦列の先頭は、恐るべき叫びをあげて、立ち上がった。方陣をも大砲をも殲滅せんとする狂猛と疾駆とに駆られ、熱狂して高地の頂点に達した胸甲騎兵は、彼らとイギリス兵との間に、一つの溝を、一つの墓穴を見いだしたのである」

実は、モン・サン・ジャン高地の頂きの背後には、深い切通しの道(凹路)があって、両側は切り立った崖になっていました。しかし、フランス騎兵隊は、これを知らずに、凹路に突進してしまったのです‥

「それこそ恐怖すべき瞬間だった。
意外にも、馬の足下に、峡谷が断崖をなし、両断崖の間に二尋の深さをなし、口を開いてそこに待ち受けていた」

「第二列は第一列を突き落とし、第三列は第二列を突き落とした。馬は立ち上がり、後方におどり、あお向きに倒れ、空中に四足をはねまわし、騎兵を振り落とし押しつぶした」

「全縦隊は既に発射された弾丸に等しかった。イギリス軍を粉砕せんための力は、かえってフランス軍を粉砕した。」

胸甲騎兵は、敵を目前にしながら、人馬もろとも、塹壕のような凹路に、転げ込み、転倒し、重なり合って圧死したのです。

「デュボアの旅団のほとんど三分の一は、その深淵のうちに落ちてしまった」

「それが敗戦のはじまりであった。

 土地の言い伝えによれば、もちろん誇張されてはいようが、2000の馬と1500人の人とがオーアンの凹路の中に埋められたという」


☆(注) ユーゴーは、ワーテルロー会戦にまつわる“伝説”にしたがって、この“凹路の陥穽”を非常に誇張して描いています。しかし、事実としては、凹路はそれほど深いものではなく、たいした影響はなかったと言われています。

. 春と修羅・初版本

07汽車の時間をたづねてみやう
08こヽはぐちやぐちやした青い湿地で
09もうせんごけも生えてゐる
10(そのうすあかい毛もちヾれてゐるし
11 どこかのがまの生えた沼地を
12 ネー将軍麾下の騎兵の馬が
13 泥に一尺ぐらゐ踏みこんで
14 すぱすぱ渉つて進軍もした)
15雲は白いし農夫はわたしをまつてゐる
16またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲)

. 小岩井農場略図(2)
↑「堰」から、右のほうへ、小川の流れるS字形の凹地が延びていて、“長者館2号”のスロープの高みと、松林のある丘との間で、ゆるい谷間になっています。そこは、「ぐちやぐちやした青い湿地で/もうせんごけも生えて」いるのです。

【下書稿】を見ますと:

「こゝは少しぐちゃぐちゃしてゐる。
 苔もあるし少し沼のやうだ。
 渉られないこともないだらう。
 雲が白いし男はおれの来るのを見てゐる。
 そして一寸立ちどまって待ってゐる。
 また歩き出す。白の雲、畠の土、」

となっていて、
作者はこの「青い湿地」を徒渉してS字谷の小川を遡り、「農夫」のいる“長者館2号畑”の上部へ向かって歩いていることがわかります(「拡大図」の紫の矢印)

そうすると、《初版本》までに加筆された「ネー将軍麾下の騎兵の馬」というのは、作者に対応すると考えられます☆

☆(注) 「ネー将軍」は、‘ネー元帥’の記憶違い。

さきほど要約した『レ・ミゼラブル』に出ていたように、
ネー元帥に指揮された装甲騎兵の隊列は、ラ・ベル・アリアンスの丘[ナポレオンの本営]を駆け下り、昨夜の雨で沼地のようになった谷を「すぱすぱ」踏み越えて、泥んこの斜面をモン・サン・ジャン高地へ駆け上がっています。

つまり、作者は、湿地のぬかるみを越えて、「農夫」のほうへ斜面を昇ってゆく自分を、ナポレオン軍の騎馬になぞらえているのです。

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