ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.3


こうして、ワーテルロー会戦で、指揮官のネーは、自ら前衛を率いて突撃していたので、全体を見るゆとりがなく、彼の指令の失敗をフランス敗北の原因とする説もあります。

敗戦後、ナポレオンは敵国イギリスに投降してしまい(処刑を免れて、セント・ヘレナ島に流配)、
フランスではブルボン王政が復活しますが、

ネーは、“国家反逆罪”で銃殺刑に処せられます。

敗戦指揮官とはいえ、まだ国民の支持のあったネーが処刑されたは不思議ですが、
ネーは、ナポレオン派の同僚の裁判を受けたくないために、
あえて、王党派で占められた上院による裁判を受けて死刑になったようです。

ユーゴー描くネー元帥の失敗の一つが、第9・10章、モン・サン・ジャン高地の戦闘なのです。

以下、↓『レ・ミゼラブル』の記述を要約しますので、実際の歴史的事実とは多少違っていたり誇張されている部分も、ユーゴーの記述のままとします。

引用の翻訳は、豊島与志雄訳ですが、一部の字句を改めています。

てっとりばやく“ナポレオンとワーテルロー”を知りたい方は、こちら:⇒ワーテルロー(映画リンクつき)

「1815年6月17日から18日にかけての夜に、もし雨が降っていなかったならば、ヨーロッパの未来は、今とは違っていたであろう。降った水が数滴多いか少ないかで、ナポレオンの運命は左右された。

天は、ほんのわずかの降雨によって、ワーテルローを、アウステルリッツ戦勝
〔ナポレオンが露墺2帝に勝利した会戦。これによりヨーロッパを制覇した〕の結末たらしめたのである。時ならぬ一片の雲が空を横ぎっただけで、世界を転覆させるには十分であった。」

6月17日は前哨戦であり、18日昼ころから始まった“ワーテルロー”の戦闘は、わずか半日で決したのです。

現場は、17日夜からの土砂降りの雨のために泥濘状態となり、砲門の定置が遅れて開戦が昼頃にずれ込んだことも、フランス側の大きな敗因でした。
というのは、プロイセン軍の到着までに英蘭軍を壊滅させなければ、フランスは、数で圧倒的な劣勢に立たされるからです。

じっさいに、緒戦はおおむねフランスに有利に展開しましたから、もし、ウェリントン将軍の英蘭連合軍が、夕方のプロイセン軍到着まで持ちこたえられなかったとしたら、勝敗は逆転していたにちがいないのです。

「なぜ、11時半にしか始まらなかったかといえば、土地が湿っていたからである。砲兵が移動するためには、土地が少しでも固まるのを待っていなければならなかった。」

この時代の戦争で最も重要な兵器は、大砲でした。

フランスは、革命期の諸発明によって、大砲と火薬の生産力と優秀さにおいて諸国を圧倒していました。

「ウェリントン
〔英蘭軍の総司令官〕が159門の火砲しか有しなかったのに対して、ナポレオンは240門を有していた。」

「ナポレオンは、〔…〕馬に引かれた砲兵隊が自由に動き回り駆け回り得るまで、待つことにしたのである。それには太陽がのぼって地を乾かさなければならなかった。しかし
〔朝のうちは曇っていたので〕太陽の出るのは遅かった。」

「雨は、終夜降りとおした。地面はその土砂降りに捏ねかえされていた。水は鉢に溜まったように、平原の窪地に、ここ・かしこ溜まっていた。ある所では、輜重車は車軸まで泥水につかった。馬の腹帯は、泥水をしたたらしていた。」

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