ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.37


「姥屋敷の家々」について、寝静まった夜間に

「そのそばを通る方が、野原の夜の底を歩くよりも、ずっとおそろしかった」

と、森氏が書いているのも、注意を惹きます。

賢治から“心象の見方”を教えられながら歩いていた森氏の感想は、その時の賢治の感覚に非常に近いと思われるのです。

【清書稿】に書かれている:

「〔…〕姥屋敷ではきっと
 犬が吠えるぞ 吠えるぞ。」

は、閉鎖的な部落の人々に対する・その種の恐れなのかもしれません。

ともかく‥、森氏の手記から分かることは、賢治が岩手山麓の自然に対して抱いていたものは、──一部の学者が主張するような──自然の中での開放感というような単純なものではなく、
一歩踏み込めば吸い込まれてしまうような恐ろしさを伴い、彼の深層に、両義的な根を深く下していたのだと思います。

つぎに、やや飛躍になるかもしれませんが、「小岩井農場」より少し前、1922年1月頃成立☆と思われる習作散文『花椰菜』を見たいと思います:

☆(注) 原稿の題名の下に「一九二二・一二・」、本文末尾に「1922.1.─」と記入してあります。漢数字は執筆時期、算用数字は清書の時期を記入したもの。しかし、用紙は、同じものが「ひかりの素足」の大部分、「ペンネンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の過半、童話「注文の多い料理店」の下書き(刊本の作品日付は1921.11.10)に使われています。したがって、漢数字は「一九二一・一二・」の誤記の可能性があり、実際の執筆は1921年終り頃と推定します。





. 花椰菜 花椰菜(携帯)

「うすい鼠がかった光がそこらいちめんほのかにこめてゐた。
 そこはカムチャッカの横の方の地図で見ると山脈の褐色のケバが明るくつらなってゐるあたりらしかったが実際はそんな山も見えず却ってでこぼこの野原のやうに思はれた。
   〔…〕
 外はまっくろな腐植土の畑で向ふには暗い色の針葉樹がぞろりとならんでゐた。
 小屋のうしろにもたしかにその黒い木がいっぱいにしげってゐるらしかった。畑には灰いろの花椰菜が光って百本ばかりそれから蕃茄(トマト)の緑や黄金(きん)の葉がくしゃくしゃにからみ合ってゐた。馬鈴薯もあった。馬鈴薯は大抵倒れたりガサガサに枯れたりしてゐた。ロシア人やだったん人がふらふらと行ったり来たりしてゐた。全体祈ってゐるのだらうか畑を作ってゐるのだらうかと私は何べんも考へた。
 実にふらふらと踊るやうに泳ぐやうに往来してゐた。そして横目でちらちら私を見たのだ。〔…〕
 右手の方にきれいな藤いろの寛衣をつけた若い男が立ってだまって私をさぐるやうに見てゐた。私と瞳が合ふや俄に顔色をゆるがし眉をきっとあげた。そして腰につけてゐた刀の模型のやうなものを今にも抜くやうなそぶりをして見せた。私はつまらないと思った。それからチラッと愛を感じた。すべて敵に遭って却ってそれをなつかしむ、これがおれのこの頃の病気だと私はひとりでつぶやいた。そして哂った。考へて又哂った。
 その男はもう見えなかった。
   〔…〕
 私はふっと自分の服装を見た。たしかに茶いろのポケットの沢山ついた上着を着て長靴をはいてゐる。〔…〕人がうろうろしてゐた。せいの高い顔の滑らかに黄いろな男がゐた。あれは支那人にちがひないと思った。
 よく見るとたしかに髪を捲いてゐた。その男は大股に右手に入った。それから小さな親切さうな青いきものの男がどうしたわけか片あしにリボンのやうにはんけちを結んでゐた。そして両あしをきちんと集めて少しかゞむやうにしてしばらくじっとしてゐた。私はたしかに祈りだと思った。」

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