ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.36


しかし、戻り始めた作者の意識に、1つだけ、奇妙な想念の浮かんでいる箇所があります:

「けれども一寸雨を避[よ]けやうか。
 笹がばりばり枯れてゐる。
 それに松ばやしには誘惑がゐる
 尤も今ごろそんなものは何でもない。
 何でもないが
 やっぱり雨は漏ってゐる。
 笹に座れば座れるんだが
【雨避[よ]けにならなくては仕方ない。】
 何でもぐんぐん歩くにかぎろ」

「誘惑」とは何でしょうか?

 



ここは、【下書稿】では、「誘惑がある」となっていました。それを、あえて「ゐる」に直したのか?‥それとも単なる誤字なのでしょうか?

その前後の行の意味は:

笹の生えた松林で雨やどりしたいが、松の「密林」とは言っても、「やっぱり雨は漏ってゐる」ので、ここで雨やどりするのはあきらめて、足早に戻ってゆく──ということです。

「笹がばりばり枯れてゐる。
 それに松ばやしには誘惑がゐる
 尤も今ごろそんなものは何でもない。」

「今ごろそんなものは何でもない」と言っているのは、まだ春先で笹はそんなに伸びていないので、笹の上に座って休憩できるという意味でしょうか?

「誘惑がゐる」けれども「何でもない」と言っているようにも読めます。

れいによって‥松林の笹むらの中に、なにか恐ろしい生き物がいるような感じなのですが、それが何なのかは、容易に読み取れません。

作者の深層意識にある・正体のつかめないものに繋がっているのかもしれません。。

「透明なもの燃えるもの/息たえだえに気圏のはてを/祈ってのぼって行くもの」にも関係があるかもしれません──これらの行は【清書稿】での書き加えですが。

手がかりになりそうな資料を、少し引いてみたいと思います:

「姥屋敷の家々は、小山のように大きな農家だったが、しんと静まりかえって、寝ていた。ただ水車の音らしいものが、水音とともに聞こえていた。そこに家がある。そのそばを通る方が、野原の夜の底を歩くよりも、ずっとおそろしかった。〔…〕
 〔…〕歩いているうちに、あたりはやや傾斜して、小さな松の木が生えているような場所にかかった。私たちは松の木をさがして、その下に眠ることになった。大地は暖かかったが、岩手山から降りてくるその空気はつめたく、どうしても深く眠ることができず、うつらうつらとしていた。〔…〕
 《ここらに眠ると、いつでも大きな亀のような爬虫類が、お前を食べるといったり、お前の血がほしい、おまえの血がほしい……と、どんどんおしかけてきましてね……》
 二人同時に、一本ずつとなり合った松の根元から立ちあがって夜の底をまた歩き出したとき、宮沢さんが、今しがたうつらうつらして見た恐ろしい夢を話した。夜中にこの道に来ると、ここで野宿をしなくても必ずよくない幻想に襲われるともいった。」
(森荘已池「『春谷仰臥』の書かれた日」,in:同『宮沢賢治の肖像』,1977,津軽書房,pp.271-272)

↑これは、森氏が中学生の時(1925年)、賢治に同伴して小岩井〜姥屋敷〜柳沢のコースを夜間歩行した際の回想記事(1974年改稿)です。1934年に追悼記事として発表した際には伏せていたことがらを補充して改稿しているので、事実として信頼がおけます。

“小さな松の木が生えている斜面”を、賢治は、野宿の場所としてよく利用していたことが分かります。

そうした場所では、“爬虫類に食われたり血を吸われる恐ろしい夢”を見ると、賢治は言っています。

「小岩井農場」【清書稿】の「誘惑がゐる」は、こうした悪夢のことかもしれません。
「誘惑」と言っている以上、そうした悪夢に、むしろ強く惹かれていて、自分が没入してしまうことを恐れているように思われます。

昼間なので、「今ごろそんなものは何でもない」と言っているのも、よく解ります。

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