ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.31


第4連に移りますと:

「南なる雨のけぶりに
 うす赤きシレージの塔
 かすかにもうかび出づるは
 この原もはやなかばなれ」

「羊」、「玉蜀黍」(トウモロコシ)、「シレージの塔」から、場所は小岩井農場であることが分かります。「赤きシレージの塔」は、《育牛部》上丸牛舎のサイロです☆:画像ファイル:上丸牛舎のサイロ

☆(注) 「シレージ」、ないしサイレージ(silage)は、牧草や飼料作物をサイロで発酵させた家畜用飼料のこと。

山のほうから下りて来て、《育牛部》のサイロが南に見えてきたという描写から、この場所は、まさに、「小岩井農場」【下書稿】で、「青柳教諭の追懐」というメモが記入されていた場所──《長者館耕地》付近であることが分かります。

最後に、最終形=【下書稿(2)手入れ】を見ておきたいと思います。

「青柳教諭」は、草原に“ひとすじ”引かれた道を歩んで、作者の先に立って進んでゆく配置になり、

前nの草稿形よりも、ずっと果敢で芯の強い人物になっているのではないでしょうか?

「〔青柳教諭を送る〕

 痩せて青めるなが頬は
 九月の雨に聖くして
 一すじ遠きこのみちを
 草穂のけふりはてもなし」

ところで、中学2年時の岩手山行は、下山途中に網張温泉で1泊しているのですが、この当時の網張にはまだ旅館などなく、夏の間だけ小屋守りのいる湯治場があるきりでした。

同行した5年生の回想記を見ますと:

「網張温泉の宿守も既に下って寝具の布団もなかった。温泉と焚火で寒い一夜をあかして下って来た事は忘れ得ない。」

とあります。

温泉で身体を温めても、布団がなければ、かえって湯冷めして眠れないほどだったのではないかと、思われます。





盛岡高農の傭員として、賢治と接触があったというH氏の回想によれば、
賢治は、

「中学時代のこと、肺を病んでいる友人がいて、賢治君がそこへ見舞いにいくと、『体温がだんだんへって、からだが冷えて困るが、何とかよい方法がないだろうか』と相談された。賢治君はその日はそのまま帰ったが、つぎに訪ねていったとき、シャツ一枚になり、その友人のベッドに入って、骨と皮ばかりになっている友人の躯を抱きしめて温めてやった。友人は感激して泣き、賢治君もいっしょに泣いた。『あのときほど心の悦びというものを味わったことはない』と、賢治君は私に語ったことがござンす。」
(儀府成一『人間宮沢賢治』,1971,蒼海出版,p.126.)

という逸話があったそうです。

中学生時代の賢治にとって、男同士で肌を重ねて寝ることは、自然な行動だったことが分かります。

網張温泉でも、こうしたことがあったかどうかは分かりませんが、
ともかく、〔青柳教諭を送る〕という理想化された作品から、中学生の賢治の行動を、あまり理想化して考えすぎないほうがよいと思うので、記しました。

「青柳教諭」に対する《初恋》にしても、宮澤賢治自身、それが《初恋》だと分かるまでには、──同性愛だったと理解するまでには、相当に長い時間がかかったと思うのです。

『春と修羅』「小岩井農場」の段階では、

「青柳教諭の追憶」

というメモを残しただけで、ついに作品化することはできませんでした。

《初恋》を《初恋》として受け止め、これを作品の形に結実させて行くには、晩年の文語詩時代を待たなければならなかったのだと思います★

★(注) 人間の記憶というものは、不思議なものだと思います。
“現象するもの(das Erscheinende)”の本体が記憶の中から姿を現すためには、さまざまな条件が必要なのです。意識の主体が、当の“現象するもの”の存在は‘許される’と認めることも、重要な条件であるはずです。意識がこの許可の“堰”を開放するまでは、雑然と集積されたパーツの現象(Erscheinungen)が認められるにすぎないのです。

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