ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.2.12


この作品「蠕虫舞手」は、これまで、どういうわけか当然の如く、一人の語り手の語る詩として読まれてきたように思います。
ギトンも、なんとなく、そう読んでいました。

でも、今回これを書くために、あらためてよく見直してみたら、
字下げで、はっきりと3つの声部に分かれていて、それぞれ一貫性があるんですね‥

つまり、対話詩、あるいは会話詩として読んでも十分に読める形なんです。

すくなくとも、複旋律の合唱‥あるいは交響詩‥

どちらかがリードでどちらかがバッキングというんでなく‥対等な3声の掛け合いになってるんです…

もし、ひとりの“作者”の語りとして読むんなら、3つの“内なる声”のやりとり・相克として読まないとなりません。。

3つの声部は、それぞれが別の人物と思ったほうがいいくらい、
違う感じ方、違う主張を表現している:

. 春と修羅・初版本


@【第1声部・高音部】〔字下げ無し〕
03-06,09-12,19-23,26-29,33-37,43-44,49-51行目。

A【第2声部・低音部】〔2字下げ、括弧書き〕
01-02,07-08,13-18,24-25,30-32,45-48,54行目。

B【第3声部】〔3字下げ、括弧無し〕
38-42,52-53,55-56行目。

【高音部】【低音部】と、仮に名づけてみたのは、テノールとバスで、あるいはキーボードの右手と左手で弾いたらちょうどいいかなと思っただけで‥深い意味はないです‥‥

もっとも、【第3声部】は、最後のほうに計9行出て来るだけで、内容も【高音部】とどう違うのか分かりませんが。。

ところで、ギトンはこれを読んで、バッハの三声のシンフォニア、あるいはフーガを連想しました。
三声のフーガは、常に3つの声部が現れるわけではなくて、真中の声部は、曲の途中ではしばしば、上下どちらかの声部に吸収されてしまいます。
それも、この詩に似ているんですね。

【第3声部】の内容は、ほとんど【高音部】と変りませんが、
55-56行目では、逆に【低音部】の一部になっています。

つまり、51-56行目の3つの声部の掛け合い↓↓は、まさにフーガの終結部のように思われます。

51蟲は エイト ガムマア イー スイックス アルフア
52   ことにもアラベスクの飾り文字かい
53   ハッハッハ
54 (はい またくそれにちがひません
55   エイト ガムマア イー スイックス アルフア
56   ことにもアラベスクの飾り文字)

醒めた【高音部】(+【第3声部】)は、《科学者の心》。

ロマンチックな【低音部】は、《詩人の心》。

‥と言ってもよいかと思います。

【高音部】は、ユスリカの細かい生態観察のすべてを含んでいますが、
観察する側の人間をも「水晶体や鞏膜の/オペラグラス」などと呼んでいて、まったく即物的な眼で見ています。
また、「ひとりで」無心に踊っているユスリカを、ともすれば舞台の上の踊り子のようにとらえがちですし、
「おどつてゐるといはれても/真珠の泡を苦にするのなら/おまへもさつぱりらくぢやない」などと、現実的な醒めた見方に傾いたりもします。
これに対して、【低音部】はあくまでも、「舞手」として鑑賞し讚美するロマンチストの立場を崩そうとしません。


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