ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.2.9


つまり、これらの謎めいた文字たちは、遠い世界または異界から風に乗って飛んで来たり、雪の積もった野原の上空でゆらゆらと踊っていたり、あるいは、絡み合った茨や灌木やつるくさ自体が、こみいった文字の連なりを表していたりしますが、

それらの文字は、自然のメッセージ、あるいは自然を通じて、その向う側にある存在が私たちに伝えてくるメッセージとして、描かれているのです。

「蠕虫舞手」の場合にも、「8、γ、е、б、α、‥‥」というユスリカの舞いは、何らかの謎めいたメッセージの表現として書かれているのだと、ギトンは考えます。

. 春と修羅・初版本

09羽むしの死骸
10いちゐのかれ葉
11眞珠の泡に
12ちぎれたこけの花軸など

「羽むしの死骸」は、賢治がユスリカの成虫を知っていた、つまり、「舞手」の卵を産みつけた親は羽虫だということを知っていたとすれば、たいへん意味深い描写です。

「いちゐ」(イチイ)は、庭木に多い針葉樹で、別名アララギ、東北の方言ではオンコと言います。秋につける赤い実が特徴です:画像ファイル・イチイ

ともかく、9行目から12行目まで、どれもこれも、おそろしく細かい小さなものばかりが並んでいます。
これは、手水鉢の水面に浮かんでいるゴミでしょうけれども、賢治は、こんな小さなものを、よく観察し、また、よく記録していると思います。

苔の花軸に至っては、肉眼では見えにくい微小なものです。ちぎれた花軸を見つけて、それが苔の一部だということが判るのは、おそらく小中学生の時から、長年にわたって観察をしてきたからではないでしょうか。

13(ナチラナトラのひいさまは
14 いまみづ底のみかげのうへに
15 黄いろなかげとおふたりで
16 せつかくおどつてゐられます
17 いヽえ、けれども、すぐでせう
18 まもなく浮いておいででせう)




「ナチラナトラ」は、英語の nature(ネイチャー) あるいはフランス語 nature(ナチュール) と、ドイツ語 Natur(ナトゥール) を組み合わせた名前だという説があります。

《印刷用原稿》では、ナテ(?)ラナトラ→ナティラナトラ→ナテゥラナトラ→ナチュラナトラ と、何度も変更されていて、賢治は原語の発音をカナにするために、苦心したことが分かります。しかし、原語が何語なのかは、これを見てもよく分かりません。

「ナテゥラ」「ナチュラ」にしろ「ナトラ」にしろ、英仏独語よりも、ラテン語形 natura に近いのではないでしょうか。

ギトンは、これはラテン語の哲学用語ではないかと思います:

natura naturans(ナトゥーラ・ナトゥーランス) ──《産み出す自然》あるいは《能働的自然》

natura naturata(ナトゥーラ・ナトゥーラタ) ──《産み出された自然》あるいは《受働的自然》

これらは対になる用語です☆。
賢治は、ラテン語の発音をよく知らなかったようですから、"u" の発音が解らなくて、いろいろなカタカナを試みているのではないでしょうか。

☆(注) スピノザの汎神論によれば、《産み出す自然(能働的自然)》とは、神、すなわち創造主と、イコールです。それ自身で存在し自らを生み出す自然の働きを言います。これに対して、《能働的自然》の造り出した因果連鎖にしたがって、受動的に生起する自然が、《産み出された自然》です:Natura naturans(英文) なお、宮澤賢治は、エルンスト・ヘッケル★の科学書を精読していましたから、ヘッケルを通じて、スピノザ哲学も知っていたことになります。

つまり、賢治は natura aturans または natura naturata によって、自然法則に貫かれた自然界の奥深い働きを表そうとしたのではないでしょうか。

★(注) エルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel, 1834-1919)は、ドイツの生物学者・哲学者。スピノザ哲学、質量・エネルギー保存則、および生物進化論に基く自然観を唱える。エコロジー(生態学)という言葉は、ヘッケルが創始しました。詳しくは、「青森挽歌」の検討の際に説明します。


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