ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
3ページ/42ページ


2.1.2


ある意味で、作者の現実と切り離されているために、
通常の文学作品が持っているような自己完結性を、「真空溶媒」は持っていることになります。それは、賢治詩としては、むしろ例外的な事態です。

「真空溶媒」の持つ“幻想性”ゆえの“自己完結性”──それは作者が意図したわけではなかったでしょう──こそが、現役詩人に評判が良い理由ではないかと、ギトンは思うのです。

しかし、反面、この詩は、他の作品と比べれば、内容が平板であることも、たしかだと思います。登場人物はみな類型的ですし、会話も表面的で深みがありません。
賢治の心象スケッチ作品には、いつも溢れるほど盛り込まれている思想的・人間的な深みを、この詩に求めることはできない相談なのです。むしろ、私たちが、この詩に求めるべきものは、作者の幻想世界の明晰なイメージと構造だと思います。

そして、その中にこそ、山本太郎氏の言う「裸の自然」「ジュラ紀以来かわらぬ自然の本当の貌」をかいま見ることもできると、思うのです。

したがって、この詩は、そうした・いわば純粋なファンタジー、メルヘンとして、読むのがよいと思うのです。

. 春と修羅・初版本

01融銅はまだ眩(くら)めかず
02白いハロウも燃えたたず
03地平線ばかり明るくなつたり陰つたり
04はんぶん溶けたり澱んだり
05しきりにさつきからゆれてゐる



「融銅」は、地平線から昇る太陽の比喩、「ハロウ」は、その後光を指しています。
いずれも「まだ」見えないとしながら、脳裏には、赤々と耀く日の出のイメージが残ります。

作品「春と修羅」にあった次のような比較語法も、同じ効果を狙っているのだと思います:

「(正午の管楽よりもしげく
  琥珀のかけらがそそぐとき)」

これらは、一種の“譬喩(ひゆ)”と言ってよいのではないかと思います。

とは言っても、直喩(シムリ)でも隠喩(メタファー)でも換喩(メトニミー)、提喩(シネクドキ)でもない‥西洋の修辞学には無い比喩ですね‥

しかし、日本ではむかしから、この種の修辞が使われていたように思います。
たとえば、《万葉集》などの枕詞も、ある言葉の指すもののイメージを脳裏に残すことによる修辞ではないでしょうか?

隠り沼(こもりぬ) 下(した)ゆ恋ふれば すべをなみ 妹が名告(の)りつ 忌むべきものを」
(11-2441)
〔ひそかに恋しているので、がまんできなくなって、貴女の名を人に告げてしまった。いけないことなのに〕

「こもりぬの」は「下」を導く枕詞ですが、茂みに隠れた沼、あるいは水の流れ出ない淀んだ沼のイメージが、内密の恋の苦しさを表現しています。

「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
(2-142,有間皇子)
〔家にいるときはいつでも食器に盛って食べる飯を、今は旅に出ているので椎の葉に盛って食べる〕

「くさまくら」は「旅」の枕詞ですが、草を枕にして野宿するような・うらぶれた、あるいは自由気ままな旅のイメージがないでしょうか?
ちなみに、この時、有間の皇子は、謀反の罪で捕えられ、処刑のために護送される途中でした。

さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」

(古事記,オトタチバナヒメ)
〔相模の小野で、野火の炎に囲まれながら、ひたすら私の身を案じて下さった貴方よ〕

「さねさし」は「相模」の枕詞ですが、「さ嶺嶮し」と書きます。相模の国の険しい峰々(足柄山と丹沢?)のイメージが表現されているのではないしょうか。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ