ゆらぐ蜉蝣文字
□第2章 真空溶媒
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2.1.15
いま、賢治自身の言葉を引いてみますと:
「立ちどまりたいが立ちどまらない」
(「習作」)
「あらゆる変幻の色彩を示し
……もうおそい ほめるひまなどない」
(「真空溶媒」194-195行目)
「もう馬車がうごいてゐる
(これがじつにいゝことだ
どうしやうか考へてゐるひまに
それが過ぎて滅(な)くなるといふこと)」
(「小岩井農場・パート一」)
「それよりもこんなせわしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう」
(「小岩井農場・パート一」)
つまり、「立ちどま」って述懐したり、風景のすばらしさを称讃する修辞などを考えている「ひまなどない」と言うのです。
そして、作者の考えで、無理やり自然を“切り取る”のではなく、
《現象》それ自身の運動にしたがい、それを妨げることなく、
《現象世界》の動きそのものに乗っかってゆく方法を身につけることができれば、
詩は──《心象スケッチ》は──、それ自身の法則によって、
「いかにも確かに」展開して行くのです。
さて、そこへ、「保安掛り」の登場です:
. 春と修羅・初版本
102 (どうなさいました 牧師さん)
103あんまりせいが高すぎるよ
104 (ご病氣ですか
105 たいへんお顔いろがわるいやうです
106 (いやありがたう
107 べつだんどうもありません
108 あなたはどなたですか)
109 (わたくしは保安掛りです)
110いやに四かくな背嚢だ
111そのなかに苦味丁幾(くみちんき)や硼酸や
112いろいろはいつてゐるんだな
「牧師さん」という「保安掛り」の呼びかけで、作者「おれ」は牧師だということが、いまはじめて分かります。
“分かった”というよりは‥これは夢ですから‥いままでは何者でもなかった「おれ」は、ここではじめて牧師になるのです。
人は、他者の登場・現前と介入によって、“何者か”になります。
《赤鼻紳士》が登場した時に、そうならなかったのは、《赤鼻紳士》は、本格的な‥インパクトのある他者ではなかったからでしょう。《赤鼻紳士》の「おれ」に対する対応のしかたも会話も表面的で、あたりさわりがないのです。
しかし、《保安掛り》はそうではありません。《保安掛り》は、このあとのクダリで、行き倒れようとしている「おれ」からカネメのものを盗み取ろうとしているように、‥また、追剥行為を見咎められると、縮んで泥炭の塊になってしまうように‥、
《保安掛り》は、「おれ」とは、…いわば生きるか死ぬかの間柄‥、一方の生は他方の死を意味し、他方の死は一方の生を保証する‥、たがいの死命を制しあう、真の意味での《他者》なのです。
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