ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.1.11


. 春と修羅・初版本

77苹果(りんご)の樹がむやみにふえた
78おまけにのびた
79おれなどは石炭紀の鱗木のしたの
80ただいつぴきの蟻でしかない

リンゴの樹は、ますます増えて生長し、古生代の「鱗木」のような巨樹になってしまいます。

ところで、当時、春の盛岡地方では、リンゴの花の咲く姿が、たいへんに目立つ風物詩だったそうです。

ちょうど賢治が、「真空溶媒」の《スケッチ》を書いていた1922年5月、盛岡高等農林学校の学生だった人が故郷(大阪)の友人に宛てた葉書があるのですが:盛岡高農からの手紙 盛岡高農からの手紙【携帯】

これを見ると、@苺の花(モミジイチゴなどの木苺と思われます)、Aリンゴの花、B落葉松(からまつ)の若葉、の3つが、盛岡の春には何といっても目立つというのです

賢治の『春と修羅』でも、すでにスケッチ「習作」でイチゴについて書いていましたし、
落葉松の若葉も、このあと、「小岩井農場」以後のスケッチには頻繁に登場します。

そうすると、この「真空溶媒」にリンゴが登場するのも決して偶然ではなく、それが、盛岡の春を(たぶん花巻でも)目立って彩る花だったからだと思います。

「鱗木(リンボク)」は、古生代の巨大シダ★。リンゴから変化した樹木が巨大化して、作者の姿は、巨大な密林の地面をはう蟻のようになってしまいます。

なお、北上山地の大部分は古生層です。

★(注) 古生代石炭紀に栄えた巨大なシダ植物。表面がうろこ状で緑色の幹は、枝分かれせずに真っ直ぐに伸び、樹高30〜40m, 直径1〜2m に達した。高所の先端で枝分かれして、葉と胞子嚢を付けている。リンボクや、近縁のフウインボク(封印木)は、沼沢地に密集して生えていたが、その大量の死骸が化石化して石炭となった:画像ファイル・鱗木

. 春と修羅・初版本

81犬も紳士もよくはしつたもんだ
82東のそらが苹果林(りんごばやし)のあしなみに
83いつぱい琥珀をはつてゐる
84そこからかすかな苦扁桃(くへんたう)の匂がくる
85すつかり荒すさんだひるまになつた

作者のいる林底から、
巨大密林の木の間越し(このまごし)に、太陽の出ている東のほうを見ると、
木々の幹のへりに日が当たって、金色に輝いて見えます。

琥珀(こはく、アンバー)は、古い時代の木の樹液が固まって化石になったものですが、褐色〜黄色の半透明な宝石です。もともと植物質ですから、鱗木に貼ったらきれいでしょうね:画像ファイル・琥珀

「苦扁桃(くへんとう)の匂い」:猛毒の青酸ガス☆は“苦扁桃”の甘い匂いがします。

☆(注) 青酸(シアン化水素 H−C≡N)は、猛毒の気体または液体。空気1g中0.3rで即死します。

巨大化した密林は、金色に輝いて、青酸ガスまで発散しはじめたので、「すつかり荒さんだひるまにな」ってしまいました。

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