ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.17.3


そして、嘉内は、2番では次のように唄います:

「仕合わせ求め行く道に はぐれし友よ今何処(いずこ)」

「はぐれし友」とは、言うまでもなく賢治との友情・恋情を愛惜しての言葉でしょう。
菅原千恵子氏はじめとして、嘉内と賢治の“別れ”☆については、保阪が“まことの道”から逸れてしまったという理解が多いようですけれども‥、むしろ賢治のほうが“はぐれてしまった”“それてしまった”というのが、当の二人の間では共通の理解だったのではないかと、ギトンは思うのです。

童話『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラの“別れ”の場面でも、保阪がモデルと思われるカムパネルラは、“お母さんがいる「きれいな野原」”──天上の世界へ移って行くのに対し、賢治がモデルと思われるジョバンニは、乗客が減ってがらんとしてしまった列車内に取り残されるのです‥★

☆(注) ちなみに、保阪家には、嘉内と賢治が'決別した'とされる1921年以後も、二人の交流がなければ在るはずのない賢治の農学校での写真(1925年10月撮影)や、東北採石工場(1929年〜勤務)の鈴木東蔵の著書があるそうです(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,p.118)。二人の絆は切れていなかったのです。現存する賢治の最後の嘉内宛書簡は1925年6月のものですが、それ以後も手紙の往復や、ひょっとすると再会があったかもしれません。
★(注) この童話の読み方ですけれども‥、ジョバンニを中心とする“書かれた物語”だけを考えていると一面的になると、ギトンは思います。カムパネルラを中心とする“もうひとつの銀河鉄道”を、読者は想像して読む必要があると思うのです。級友を助けようとして溺れ、他界へ移って行く瞬間に思い出した親友ジョバンニを引き込んで、天上へと旅立とうとするカムパネルラには、この“別れ”の場面は、どのように見えているでしょうか?

じっさい、保阪が賢治に対して、「仕合わせ求め行く道に はぐれし友よ」と、はっきり意識するのは、1925年に保阪が結婚して家庭を持った時ではないかと思うのです‥

そうすると、この《勿忘草の歌》は、保阪の結婚の前後か、結婚前でも比較的近い時期に作られた可能性が高いことになります。

そして、賢治は、1924年4月に『春と修羅』《初版本》を発行したあと、その年の10月までに、その1冊を保阪にも贈っています◇
おそらく、保阪は、賢治から贈られた『春と修羅』を読んで、そこに収録された「習作」から、白秋の歌詞にこめられた賢治の思いを読み取り、「家庭歌」を作詞したと思うのです◆

◇(注) 保阪家には、賢治が嘉内に贈った『春と修羅』《初版本》が現存し、その扉には嘉内の字で、「大正拾参年拾月 宮澤賢治兄より」と記されています。『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,p.118. この冊は、現在は韮崎市民交流センター・ふるさと偉人資料館に展示されているようです。嘉内は何度も読んだのでしょう、壊れてまた丁寧に補修された書籍が展示されているそうです(韮崎市民交流センター
◆(注) 「習作」に“引用”された歌詞は、白秋の原歌詞とは微妙に違っており、その違っている部分がそっくりそのまま《勿忘草の歌》に引き継がれています。そのために、この歌詞を“どちらがどちらに教えたのか?”“教えた機会はいつなのか?”といった問題に、研究家の関心が集まっています(宮澤賢治の詩の世界 宮沢賢治と「アザリア」の友たち)。しかし、白秋・原作詞の「恋の鳥」自体は、1919年1月東京での「和製カルメン」初演以来、非常に広く流行したそうですから、1922年ころまでには、二人とも知っていておかしくはないのです。ギトンはむしろ、なぜ賢治が白秋の原詞を、このように“変えて”収録したのか?‥そして、嘉内がなぜ、それをそのまま取り入れ、さらに「仕合わせ尋ね行く道の‥」以下を作詞したのか?‥〔もちろん、ここで想定した賢治→嘉内とは逆に、嘉内→賢治の方向に模倣された可能性もあるのですが〕‥にこそ追究すべき問題があると思うのです。

↑↑以上では、「保阪家家庭歌《勿忘草の歌》」は、1924年に賢治が保阪に贈った『春と修羅』《初版本》を読んだ保阪が、「習作」を見て作詞したという推測を述べました。

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