ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.17.2


(a)「とらよとすれば その手から ことりはそらへ とんで行く」

宮沢賢治の作品「習作」の左側(《初版本》は縦書きなので上段)にある↑この詩句(a)は、白秋の1番の歌詞とは少し異なっています。白秋の歌詞は「捕へて見れば‥」なのに、そこだけ3番の最初を持ってきて「捕よとすれば‥」。
これは単なる記憶誤りや誤記というよりも、改作なのだと思います。

白秋の原歌詞は:

(b)「捕へて見ればその手から 小鳥は空へ飛んでゆく」

恋の相手を自分のものにしたとたんに、相手はさっさと見切りをつけて他へ飛んで行ってしまった‥こんちくしょう!という意味です。だから「泣いても泣いても泣ききれぬ」という歌詞が続きます。

しかし、作品「習作」に引用されている(a)のほうは、とらえようとしても、なかなかとらえられない‥ますます追いかけたくなる‥という恋心を唄っていることになるでしょう。

この違いは、白秋と賢治(賢治自身とは限らないことは↓下で述べます)の恋愛観の違いに対応していると思うのです。
白秋が、“伝統的”な破滅愛・悲恋好みであるとすれば、賢治の“恋”は、いつも前向きで初々しいのです。悪く言えば、情の深みなどありません(笑)。恋の気持ちだけでうきうき自己満足して、相手はどうでもよい(爆)、面倒になると“うるさいっ”‥去るもの追わず‥そんな感じです。賢治のほうが世代が若いのでしょう。というより、半世紀以上のちの私たちに近いとさえ言えるかもしれません‥

ともかく、「習作」の詩句(a)は、白秋の原詩(b)とはいちおう区別して考えるべきだと思います。

ところで、じつは、保阪嘉内☆の作詞作曲した歌に、この「習作」の詩句と同じ部分があるのです。
「保阪家・家庭歌《勿忘草(わすれなぐさ)の歌》」というもので、1925年に結婚した嘉内が、しばしば家族と共に歌っていたものです★:

一、
 捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く
 仕合わせ尋(たず)ね行く道の遙けき眼路に涙する
二、
 抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く
 仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)
三、
 流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水浅葱(みずあさぎ)
 波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く」

☆(注) 保阪嘉内については⇒いんとろ【8】たったひとりの恋人:保阪嘉内

★(注) 保阪善三・保阪庸夫監修、大明敦・他著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,p.274.

それにしても、保阪作詞のこの唄は、なかなか不穏当ですねww

「抱かんとすれば我が掌から鳥はみ空へ逃げて行く」

「抱かんとすれば」だなんて…そのものズバリで…北原白秋顔負けですね





3番は、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年刊)に、ウィルヘルム・アレント作「わすれなぐさ」として収録されているものですが、これについては、後日、「青森挽歌」の中で検討する機会があります。

そこで、3番はひとまずおいて、嘉内の作詞した1,2番を見ますと、これは、嘉内と賢治の仲を知っている私たちには、じつに意味深長なものがありますね。。。

「仕合わせ尋ね行く道の 遙けき眼路に涙する」

つまり、嘉内の歌詞では、白秋のような“恋人に逃げられた涙”ではなく、
「どこまでもいっしょに進んで行こう」と誓った親友と目指して行く進路の・遥かな遠さ困難さに絶望する、いわば挫折の涙です。
これに対応する賢治の“涙”の表現も、『冬のスケッチ』や『春と修羅・第1集』の随所に見られます。例えば:

「げにもまことのみちはかゞやきはげしくして行きがたきかな。〔…〕かなしみに身はちぎれなやみにこゝろくだけつゝなほわれ天を恋ひしたへり。」

(『冬のスケッチ』45葉,§5)

「(かなしみは青々ふかく)
  〔…〕
 (まことのことばはここになく
  修羅のなみだはつちにふる)」

(作品「春と修羅」,ll.42-46)

「眼路(めぢ)」も、賢治が好んで使う語で、賢治に倣って(賢治を忘れないために?)あえて使用しているように見受けられます。

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