ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.16.9


最後に、「小岩井農場・パート九」の《印刷用原稿》を見ておきたいと思います。《印刷用原稿》は──そして、発行された《初版本》も──、『ひかりの素足』によって、イメージが仏教的に転換されたあとで書かれたものだと、ギトンは考えています:

「ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
 わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
 きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
 〔…〕
 さっきもさうです
 どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
   ((そんなことでだまされてはいけない
    ちがった空間にはいろいろちがったものがゐる
    それにだいいちおまへのさっきからの考へやうが)
    まるでへたな銅版の唐草模様なのに気がつかないか)

 雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
 あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいっぱいな野はらも
 その介殻のやうに白くひかり
 底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
   ((もう決定した そっちへ行くな
    これらはみんなただしくない
    いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
    発散して酸えたひかりの澱だ」

★(注) 「へたな銅版の唐草模様」は、《印刷用原稿》を推敲した途中形で、《初版本》では「まるで銅版のやうなのに」に改まっています。しかし、この「銅版の唐草模様」は、ウィリアム・モリスの挿絵本(この『ゆらぐ蜉蝣文字』の扉を参照!)を指していないでしょうか?また、作品「春と修羅」の「あけびのつるはくもにからまり〔…〕いちめんの いちめんの諂曲模様」にも通じるので注目されます。

《下書稿》の「赤い火の野原」が、《印刷用原稿》では、「赤い瑪瑙の棘でいっぱいな野はら」に変り、ここには『ひかりの素足』の影響が見られます。

「底の平らな巨きなすあし」は、如来の身体の特徴である“三十二相”の1番と4番を意識していると思います:

. 三十二相
<1>足下安平立相:足の裏が平らで安定している。
<4>足跟広平相:かかとが広い。

つまり、

「ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ」

と言いながら、その姿・実体は、遠くにいる作者の友人ではなく、仏の姿に変ってしまっているのです。

しかも、さらに:

「《そんなことでだまされてはいけない
 〔…〕
  それにだいいちおまへのさっきからの考へやうが)
  まるで銅版のやうなのに気がつかないか)」

「《もう決定した そっちへ行くな
  これらはみんなただしくない
  いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
  発散して酸えたひかりの澱だ」

という注記の行が新たに挿入され、「白いすあし」の幻想そのものが、信仰にとって有害なものとして否定されてしまっているのです。

そして、↑上の「発散して酸えたひかりの澱だ」のあとには、

「もしも正しいねがひに燃えて
 じぶんとひとと万象といっしょに
 至上福祉にいたらうとする
 それをある宗教情操とするならば」

で始まる有名な“演説”が、新たに書き加えられます。
そこでは、すべての人の幸福を願うのが正しい「宗教情操」であり、
自分ともうひとりだけの幸福を願う「恋愛」は否定すべき「変態」、
まして、「性慾」は、「恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得やうとする」もので、「変態」の「変態」だ、という逆立ちした“恋愛観”が説かれるのです。。。

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