ゆらぐ蜉蝣文字
□第1章 春と修羅
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「如来寿量品」の現代語訳(坂本幸男・岩本裕・訳注『法華経(下)』,岩波文庫,1967,pp.pp.12-21,30-33.)から少し引用してみましょう(訳は一部ギトン改):
「神と人間と阿修羅を含めて、世間では、
『今のこの私・シャーキヤ=ムニ仏は、シャーキヤ族の王族だったが、出家し、ブッダ・ガヤ都城に近い〔さとり〕の壇に座って、今、この上なく完全な〔さとり〕を得た。』
と思っている。しかし、ちがうのだ、良家の息子たちよ。
私が、この上なく完全な『さとり』をさとって以来、すでに果てしなく長い10の112乗の1億倍の1千万倍の百倍カルパ〔1カルパは、43億年またはそれ以上──ギトン注〕☆が経過しているのだ。〔…〕
そのとき以来、私はこの娑婆世界において教えを説いて人々を教化し、また他の10の112乗の104乗の1億倍の1千万倍の百倍の数の国でも説いてきたのだ。〔…〕
このように悠久の昔に『さとり』に到達した私・如来は、無限の長さの寿命を持ち、常に存在するのだ。〔…〕
そこで私は弟子の集団とともに、ここ霊鷲山に姿を現す。そして、私は人々に語るのだ:
『あのとき、この世で私は入滅(死亡)したのではない。あれは、死んだと見せかけて人々に信心を起こさせるための方便だったのだ。私は繰り返し繰り返し人間世界に現れ存在するのだ。』
〔…〕私を見たいと熱望せよ。渇望する者たちに、私は現れ出て、正しい教えを説いてあげよう。〔…〕
私は常に、この霊鷲山に居るのだ。〔…〕
人々が、この世界を見て、世界の終りの大火に焼かれていると見るときでも、
私のこの国土は安穏で、神々と人間たちが満ち溢れているのだ。
そこには、園林やもろもろの堂閣があり、夥しい宝玉で荘厳に飾られ、宝の樹木には花や実がすずなりで、人々には、さまざまの娯楽や愛欲のたのしみがある。
天空では神々が楽器を奏で、またマンダーラ花の雨を降らす。
〔…〕
私の国土は、いつもこのような状態なのだ。だが、他の者たちは、
私の国土が焼けていると考えるだろう。彼らは、この世界がまことに恐ろしく、
みじめで、幾百の悲しみが散在していると見るであろう。
〔…〕悪業の報いはこのようなのだ。」
☆(注) こんなのをまともに計算して、なにこれ?!ビッグバンが何兆回あっても足らない‥ばかばかしい‥などと思っているギトンには、仏教はとうてい信心できませんですww
『ひかりの素足』は、地獄に仏さまが降り立って、鬼に追われている子どもたちを救い、地獄を極楽に変えてしまう物語のように読めますが、
その宗教的な意味は、少し違うようです。
そこは、地獄でも極楽でもなく、じつにこの世界そのものなのであって、
世界を見る心しだいで、阿鼻叫喚の終末世界にもなり、天上の楽園にもなる──ということのようです。
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