ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.16.5


「雨はふるけれども私は雨を感じない。
   たしかに
 私の感覚の外でそのつめたい雨が降ってゐるのだ。
 ユリアが私の右に居る。
 ペムペルが私の左を行く。
 ツィーゲルは横へ外れてしまった。
 みんな透明なたましひだ。
 大きく眼をみひらいて歩いてゐる。
 あなたがたははだしだ。
 そして青黒いなめらかな鉱物の板の上を歩く。
 あなたがたの足はまっ白で光る。
 おゝユリア、あなたを感ずることができたので
 私はこの人生の経営からさびしい旅の中から
 血みどろになって遁げなくてもよくなったのです。
 (ペムペルペムペル これは
 何といふ透明な明るいことでせう。)
 腐植質から燕麦が生え
 雨はしきりにふってゐる。
 ユリアこゝは農場のここの処は
 全く不思議に思はれます、別段ほかとちがひはしませんが どうしてか
 Der Heiligepunkt と云ひたいやうに思ひます。
 〔…〕
 さっきはこゝで私は私について来る
 ちいさな透明な魂の一列を感じ
 いまはあなた方を見たのです。
 あなた方はけれどもまだよく見えません。
 眼をつぶったらいゝのですか
 おゝ何といふあなた方はきつい顔をしてゐるのです
 光って凛として怖いくらゐです。
 羅は透き うすく鈍い金いろ、
 瓔珞もある。かけてゐられる。
 あなた方はガンダラ風ですね。
 沙車や西タクラマカン砂漠の中の
 古い壁画に私はあなたに
 似た人を見ました。
 何といふ立派なすあしです。
 私を笑は
 雨の中のひばりです。
 あなたがたは赤い火の野原をも
 そのまっ白なすあしにふみ
 氷の空気の中にもあなた方のふむ
 青い地面はあります。
 もう本部です。
 私はあなた方をもう見ませんけれども
  [以下草稿何枚か欠]」

まず、雨の中を歩いている作者の心象に、「ユリア」「ペムペル」「ツィーゲル」という3人の「透明なたましひ」が現れます。

「あなたがたははだしだ。
 そして青黒いなめらかな鉱物の板の上を歩く。
 あなたがたの足はまっ白で光る。」

と書かれています。作者は、3人の中でも、もっぱら「ユリア」に対して話しかけています。

「おゝユリア、あなたを感ずることができたので
 私はこの人生の経営からさびしい旅の中から
 血みどろになって遁げなくてもよくなったのです。」

「この人生の経営から〔…〕血みどろになって遁げ」るとは、ただごとではありませんが(笑)★、じっさい、賢治は教師という職業になじめるまでは、そう思っていたのかもしれません。

★(注) 事実かどうか分かりませんが、「小岩井農場・パート五」にあたる《清書稿》(「パート五」は削除されたので《印刷用原稿》は無い)には、ピストルを持ち歩いているので、同僚を自宅に呼んでも恐がって来てくれないと書いている箇所があります。

そのような中で、「ユリア」の存在、あるいは「ユリア」はじめ3人の「透明なたましひ」の存在を、いかに心の頼りにしていたかが分かります。

「あなた方はけれどもまだよく見えません。
 眼をつぶったらいゝのですか」

彼らの姿は、眼をつぶる見えると言っています。つまり、3人は、現実に傍にいるのではなく、作者の想像の中に現れて来るのです。

「羅[うすもの]は透き うすく鈍い金いろ、
 瓔珞もある。かけてゐられる。
 あなた方はガンダラ風ですね。
 沙車や西タクラマカン砂漠の中の
 古い壁画に私はあなたに
 似た人を見ました。」

「羅」は、透き通って肌が見える古代の織物です。「瓔珞」は、首飾り・胸飾りなどの装身具。これらは仏像・仏画にあります:画像ファイル:羅・瓔珞

西域の「古い壁画」については、作品「小岩井農場」を扱うときに詳しく説明しますが(3.8.2: ミーラン有翼天使像の発見)、当時西域の仏教遺跡で、ギリシャ・西方の影響の濃い天使(エンゼル)画が発掘されました。それを指しています

「何といふ立派なすあしです。
 〔…〕
 あなたがたは赤い火の野原をも
 そのまっ白なすあしにふみ」

「赤い火の野原」は、修験道の“火渡り”の行を想起しているのでしょうか。テキストの典拠としては、『法華経』の「如来寿量品」から来た想像だと思います。詳しくは、↓↓『ひかりの素足』のところで説明しますが、
私たちのいる・この世界は、見方によっては地獄の業火のようだけれども、また見方によっては、如来(仏さま)が常住する・娯楽と愛欲に満ちた仏国土なのだ、という思想を述べているのが「如来寿量品」です。

ただ、賢治の詩想の中では(少なくとも、この《下書稿》の段階では)、「赤い火の野原」と“愛欲に満ちた仏国土”がいっしょになってしまって、清浄とおどろおどろしさが綯い混ざったような“賢治ワールド”を創っているように思いますw‥

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