ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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【16】 手 簡





1.16.1


. 「手簡」
「風景」と同じ1922.5.12.の日付を持つ「手簡」というスケッチが残されています。同じ日のスケッチと思われますが、「手簡」のほうは《初版本》に収録されませんでした。

「風景」では、空は晴れていたのに、「手簡」には、

「雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。」

と書かれています。
この日は最初晴れていたのに、雨になったのかもしれません。あるいは、その逆か‥
「風景」と「手簡」は、どちらが早い時間のスケッチなのかは分かりません。

「手簡」とは、手紙のことです。作者は誰かから手紙を受け取ったのでしょうか?誰かに手紙を書こうとしているのでしょうか?
あるいは、この詩自体を手紙として書いたか?

いずれにしろ、賢治がこの時期に、これほど憂鬱で、これほど苦しい気持ちを抱えていたということに、私たちは驚くのです:

01雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
02心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
03ぬれるのはすぎなやすいば、
04ひのきの髪は延び過ぎました。

05私の胸腔は暗くて熱く
06もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。

07雨にぬれた緑のどてのこっちを
08ゴム引きの青泥いろのマントが
09ゆっくりゆっくり行くといふのは
10実にこれはつらいことなのです。

11あなたは今どこに居られますか
12早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
13まっすぐに立ってゐられますか。
14雨も一層すきとほって強くなりましたし。

15誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
16向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

17いま私は廊下へ出やうと思ひます。
18どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
19その白びかりの巨きなすあしで
20あすこのつめたい板を
21私と一諸にふんで下さい。





1行空けのブレイクで6つの段に分かれていますが、最初の段から、誰か身近な人にでも話しかけるような口調です。
11行目には、作者が話しかけている相手「あなた」が現れます。
最後の段では、その「あなた」に、「廊下」をいっしょに歩いてほしいと頼んでいます。「往来」は、「いきき」と読むのだと思います。いっしょに「廊下」を行ったり来たりしてほしいという意味です。
19行目から、「あなた」は「白びかりの巨きなすあし」の人(?)だと分かります。しかし、人なのか神なのか悪魔なのかさえ分かりません。

作者は「あなた」を特定して書いているのは間違えありませんが、「あなた」とは誰なのか、読者が知るのは容易ではありません。
「あなた」については、あとでまた考えるとしましょう。

作品の場所、そして作者の立ち位置ですが、

17いま私は廊下へ出やうと思ひます。

とありますから、廊下に面した部屋にいるようです。

戸外の風景としては、
3-4行目の「すぎな」「すいば」「ひのき」。
7行目の「緑のどて」。

これらから、場所は豊沢町の自宅ではなく、
作者の勤務先・稗貫農学校の校舎と思ってよさそうです。
「ひのき」は、すぐ近くの城山(花巻城址)に生えていたようですし、「すぎな」「すいば」は、城址の濠のまわり、「緑のどて」も濠と城址の間の草の生えた崖と思われます。

作者のいる部屋には、作者のほかには──「黄ばんだ陰の空間に」“立っている”「あなた」を除いては──誰もいないようですから、養蚕室でしょうか‥。あるいは、放課後で人のいなくなった職員室かもしれません。

いずれにせよ、作者は校舎の窓から、雨の降る戸外を見ているようです。
もっとも、賢治の《心象スケッチ》では、作者の魂が脱け出して風景の中へ漂泊して行くことも稀ではありませんから、7-10行目などは、作者自身が「どてのこっち」をよたよたと歩いているのかもしれません。

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