ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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【15】 風 景





1.15.1


「風景」の日付は 1922.5.12.,「雲の信号」の翌々日の金曜です:

. 春と修羅・初版本

01雲はたよりないカルボン酸
02さくらは咲いて日にひかり
03また風が來てくさを吹けば
04截られたたらの木もふるふ
05 さつきはすなつちに廐肥をまぶし
06  (いま青ガラスの模型の底になつてゐる)
07ひばりのダムダム弾がいきなりそらに飛びだせば
08  風は青い喪神をふき
09  黄金の草 ゆするゆする
10   雲はたよりないカルボン酸
11   さくらが日に光るのはゐなか風(ふう)だ



もはや春の到来は押しとどめようもありません。詩人の意識とは無関係に、春は息せくように到来します。
↑上のリンクで《初版本》を見ると、スケッチ「風景」は、冒頭の4行だけがこの見開きに出ています。
これからしばらくのあいだ、スケッチが見開きで完結しないで次へと続いてしまい、頁付けが乱れているのは、春になったとたん、もう初夏のようになってしまう・あわただしい季節の移り変わりを表現した造形だと思います。

01雲はたよりないカルボン酸

1行目から問題があります。
「カルボン酸」は、有機化学では -COOH 基を持った有機酸の総称ですが、とくに“脂肪酸”を指して言うことがあります。“脂肪酸”は、常温で液体のものも固体のものもありますが、実験室に試薬として備え付けられているのは、ステアリン酸、パルミチン酸などの固体の飽和脂肪酸の顆粒です:画像ファイル・ステアリン酸
これらは、ラード(豚脂)、ヘット(牛脂)、蜜蝋の主成分で、白くて軟らかい固体です。融点60℃程度なので、気温が上がるとぐんにゃりしてしまいます。

ところが、《藤原本1》では、この「カルボン酸」に「炭酸」という注記が付せられています。炭酸は、二酸化炭素を水に溶かしたもので、ようするにソーダ水です。「カルボン酸」は carbonate acid(炭酸) の意味なのでしょうか?!‥脂肪酸と炭酸では、だいぶイメージが違うので、どちらに解したらよいか、迷ってしまいます。

「脂肪酸」の賢治用例には、次のようなのがあります:

「にせものゝ真鍮色の脂肪酸かゝるあかるき空にすむかな」
(歌稿A,#382)

33そこらは青い孔雀のはねでいつぱい
34真鍮の睡さうな脂肪酸にみち
(『春と修羅・第1集』「青森挽歌」)

↑最初の短歌は高農在学中のもので、信頼に足らない人物に限って、世の中では偉くなって「あかるき空」に住んでいる、ということを言いたいようです。直接の叙景としては、青空(夕暮れ空?)に浮かんだ黄色っぽい雲を指して「にせものの真鍮色の脂肪酸」と言っています。

二つ目の「青森挽歌」の一節は、夜行列車の客室の中の眠気に充たされた雰囲気です。「真鍮の睡さうな脂肪酸」は、クリーム色で軟らかい脂肪酸のイメージですね。

他方、「カルボン酸」の用例を見ますと:

「きりの木ひかり
 赤のひのきはのびたれど
 雪ぐもにつむ
 カルボン酸をいかにせん。」
(『冬のスケッチ』,17,§3)

やはり雲のようすを述べている比喩で、軟らかい固体のイメージです。

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