ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
75ページ/114ページ



【14】 雲の信号





1.14.1


. 春と修羅・初版本

01あヽいヽな、せいせいするな
02風が吹くし
03農具はぴかぴか光つてゐるし
04山はぼんやり
05岩頸([が]んけい)だつて岩鐘(がんしやう)だつて
06みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
07 そのとき雲の信號は
08 もう青白い春の
09 禁慾のそら高く掲(かヽ)げられてゐた
10山はぼんやり
11きつと四本杉には
12今夜は雁もおりてくる




これは5月10日付で、前の「陽ざしとかれくさ」(1922.4.23.)から半月たっています。
やっと本格的に春になりました。
空が広くなって、視野が開けた感じです。

最初に森荘已池(森佐一)氏の説明☆を読んでおきたいと思います:

☆(注) 森荘已池「『春と修羅』私観」(初出1954),in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究T』1975,学藝書林,pp.84-121.

「雲の信号と風景は、担任課目の実習がすんで、爽やかな五月の風を、ボタンをはづしたカーキーの作業服の胸に吹かせてゐるあの人が、張りのあるバリトンで唄ふやうに朗読しまたいくらか感傷的な声で独白しても不自然ではないやうな、底から明るく透明で暖かい作品である。労働が運動のやうに快適で、疲労さへもエネルギーの放散のあとの楽しさにさへ感じさせてゐる。」
(p.103)

↑「風景」は、次の【15】番のスケッチです。森氏は、この2篇を、賢治が楽しく生活していた農学校教師時代の労働の詩として取りあげています。
↓次の最初の“風景”は【15】番のことではなく、普通名詞です。

「風景の中に、われわれはあの人の姿をみる。雲の信号では、草原に腰を下ろして、足を投げ出し、手は上体をささへてうしろにつかれてゐる。岩頸や岩鐘は、類稀[たぐいまれ]な親近性をもつて、あの人と向かひ合つてゐる。われわれは或はこれを擬人法とさへ見誤まるおそれもある。手近にゐる生徒に、子供のときのことでもきいてゐるやうな、そんな言葉つきである。あすの晴れを示すのか雨を語るのか、雲は、東の空高く信号をあげてゐる。この詩にはじめて『青白い禁慾』、あの人の一生のライト・モチイフである、青白い禁慾が姿を現した。
 〔…〕
 学校時代は、気の合つた同僚と、あの人を敬愛する生徒にかこまれて、天衣無縫のやうな生活があった。窓から自由に飛び出たり、夜はたかだかと法華経を誦んだり、ストーブで林檎を焼いて食べたりもした。」
(p.104)

森氏が述べているように、農学校教師時代は、全体として、賢治にとっては最も明るく楽しく生活できた時期だったと言われていますし、じっさいにそうだったのだと思います。ただ、それは1921年12月に稗貫農学校に就職した最初からそうだったのではなく、
最初の頃は、以前に見た保坂宛書簡にも書かれているように、

「けむたがられて居りまする。笑はれて居りまする。授業がまづいので、生徒にいやがられて居りまする。」
(1921.12.保阪嘉内宛)

という状態だったようです。
校長との衝突もあったようですし、同僚を歯がゆく思う日々もあったようです。

1923年3月の卒業生は、化学の実験が異常にうまい以外は目立たない教師だったと、宮澤賢治を回想しています。
同僚の堀籠教諭も、はじめは堅苦しい感じがした★と書いています。

★(注) その後の宮澤賢治が、オシャレになり茶目っ気が出たと言われるように変って行ったのは、稗貫農学校のそばにあった花巻高等女学校の音楽教師・藤原嘉藤治との交友による影響も大きかったようです。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ