ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.13.2


. 詩ファイル「陽ざしとかれくさ」
少し変った読み方としては、↓こんなのがあります:

「彼は烏口のコンパスを使ってパラフィン紙に六道の輪を描いた。この低迷する鳥は修羅道に境を越えて来るだろうか。来るだろう。もし来なければ雲の棘で喝をいれてやればよい。『そんなら、おい、こゝに/雲の棘をもつて来い。はやく』と幻聴をたのしみながら詩人は答えた。」


★(注) ジェイムズ・R・モリタ「春と修羅──飛翔する宮澤賢治──」,p.214,in:『「春と修羅」研究U』,pp.207-232.

「かはりますか」「かはりませんか」をカラスと作者の会話として読むのは、おもしろいアイデアですが、六道、喝入れうんぬんは生半可な仏教知識を無理にあてはめているだけで意味がないです。

もっとも、烏口コンパスまで持ち出したのは、「輪を描」いて飛ぶのは烏の習性に反するからではないでしょうか?
たしかに‥、ギトンも、カラスが旋回飛行しているのは見たことがありません。旋回するのはトビか鷹じゃないでしょうか。

これ、烏口だと思わなくても、解決のしかたは2通りあると思います:

ひとつは、完全な旋回飛行ではなく、カラスがお城の杉の梢から飛び立って、ぐるっと飛んでまたもとの梢に戻る……つまり、「わ」の字の形に飛ぶ──テキストには、「わをかく」「わを描く」と書いてあります──ということです。
宮沢清六氏☆が、この解釈です。のちほど下で見たいと思います。

☆(注) 宮沢清六『兄のトランク』,pp134-137.

もうひとつは、カラスがトンビか偵察機のような旋回飛行をしているのだと思って読む。したがって、その部分は実際の風景のとおりではなくて、作者の創作だと考えるのです。
ギトンは、この解釈を考えてみました。

さて、清六氏は、賢治が農学校の実習指導のあとで、城跡に来て寝転んで休んでいた際のスケッチだと考えます(実際には日曜日なので実習はないはず──なのは↑上で述べました)

「あたりがしんと静まり、気圧の重さで空気がみんみん鳴るようである。
 実習服の破れ目か首すじからか、枯草がチクチクからだを刺し、丁度、薊刷毛(チーゼル)でもからだの中にあるようだ。」

「チーゼルが刺し」は、枯草の棘が服の中に入ってチクチクしているのだと考えるわけです。

「突然杉の梢から二、三羽の烏が飛び出し、軋るような羽音をさせて頭の上に何回も輪を描き、やがて又もとの梢に止まる。」

↑「わをかく、わを描く、からす/烏の軋り……からす器械……」は、このような情景のスケッチだと理解するわけです。
「(これはかはりますか)(かはります)‥」は、清六氏もカラスの啼き声がそう聞こえるのだと言っていますが、カラスどうしの対話と解します。

「遠くの女学校の方からかすかにレコードのような管弦楽らしいものがきこえ、彼はその曲を、Tschaikowsky の Fourth Symphony の Allegro con fuoco ではないかと思い、あの不思議で楽しい繰り返しを、口のなかで真似て見たりする。
 〔…〕
 ところが今の烏らがその曲に似たリズムで丁度下手な録音のように鳴き出したのだ。
 〔…〕
 この鳥の声が半分眠っている彼の耳に、〔…〕人間のことばに聞こえて来るのである。」

「(……かわらないものはあてになるもの……あてになるものはかわらないものそしてその永遠に変らないものがあるならば……ここへすぐ持って来い……あの雲助の棘で、試験をしてやるから……いいえ、やっぱりこいつもかわります、かわります……)」

「諷刺作家リヒテンベルヒが、『ゲーテが洒落をやらかすときは、その洒落には問題がかくれている。』といったが、此の詩についても此の言葉が思い出されねばならないであろう。」

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